埼玉県の中世城郭 



 

秩父市 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



 室山城sk 寺山城sk 久昌寺城sk   贄川城sk


室山城sk
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 高い頂きに  2022/12/02     2022/12/29up
 
今日は有休である。
室山城へは、秩父鉄道「浦山口」駅から登山道が近い!
ということに気づいた私は【電車でGO】と題して、すごい久々に電車で城見学に出かけることにした。

ただし、朝乗る電車は私の会社に向かう人でいっぱい。
知り合いの誰にも合わない様に、帽子を深くかぶり、お城出勤だ。
 
初めて乗った秩父鉄道。(ちょっと感動)浦山口駅に到着した。



秩父鉄道から見える室山城全景。(中央の山)


浦山口駅到着前あたりから望む。






 



 室山城へは左写真のYAMAPに記載されているコースを選んだ。
写真真ん中のコンクリートの切れ目が登山口。
ここから、比高400m程を登ることになる。
道は割としっかりしていて、ピンクテープも随所に貼られており、迷う事はなかった。

【解説】 
 




山頂に近づくと壁が見えてきた。
山頂だ。
思ったより遺構がはっきりしていそうだ。





 到着した主郭下の曲輪。
写真だとイマイチだが、現地に立つと割とここはハッキリしている。
 



 山頂である。
山の名前は「城山」。
三角点がある。




 

主郭内部。
真っ平らに整形されている。
切岸も割としっかりしている。
  

 




主郭南には写真のような窪地がある。
虎口のようである。
当方には枡形門のようにも見える。


ここからまず、南の尾根に降りてみる。
 
 
 





この尾根は通称「高ワラビ尾根」というらしい。

少し下ると真ん中に7mほどの削り残し(土橋?)がある堀切?遺構がある。
人によっては評価の分れるところだが、管理人は一応堀としておく。
左写真は、堀東側である。(ちょっとわからないね)

 




堀切の先には巨岩が並ぶ。
この尾根を監視するかのようだ。

















 
今度は主郭北に向かう。
まず北東に伸びる尾根。
主郭から一段下がった曲輪に、やはり窪地がある。
ここも枡形門の跡と推定できる。
ところが、この郭の西面が妙に遺構が甘くなる。
崩れなのか元々なのか、判断がつき難いところだ。
さんざん歩き回って出た結論は、
下図面のような
結構凝った枡形虎口と判断するに至った。






さらに下ると東西に長い曲輪?がある。
ただ、よく見ると尾根全体を東西に長く縦断しているのだ。

っつ???」

既存の資料の図面では”曲輪”と解釈されている。
しかし、 主郭から離れたこんなところに曲輪一つ配置しても、あまり意味がないと思う。

よって、当方の意見としては
これは、堀切が埋まった跡と考えている







これで、室山城の調査は終了とした。

結局、山では誰にも合わなかった。

ネット上では、この城の評判はスコブル悪い。
登る割りには、遺構が期待はずれとか、つまらない城とか書いてある。
しかし、よく観察すれば、ナカナカ技巧的な代物である。

また、山頂に至るには冒頭のYAMAPの登山道を使おう。
踏み跡とピンクテープで安全に登れる。
高さを稼ごうと、浦山ダムへ向かう自動車から山に入った人も居るようだが、
かえって山容がきつくなり、偉い目に遭っているようだ。
急がば回れである。
 

さて、この城も歴史は明らかではないが、西の熊倉城との関係があげられる。
ということは、ここも武田に備えた後北条氏の城なのであろうか?
   

【既存縄張り図評価⠀】

遺構が甘いところが有り、縄張りの解釈はまちまちである。
南の堀切跡?も城の物とするか、木を抜いた跡とみるか・・・でも、こんな高い所で、しかもここだけ木を引き抜く馬鹿もいないだろう。
そうなると、やはり堀なのか・・・・・
また、北尾根の枡形門と推理した場所も解釈はまちまち。
さらにその先の東西に長い曲輪?を「曲輪」とみるか、「堀切の埋まった跡」とみるか・・・・遺構が甘いので評価が分かれる所だろう。

 



寺山城sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

◆寺山城と周辺地形

 これぞ砦っていう感じ  2022/1/21      2023/3/9up
  

寺山城は、道の駅龍勢会館の裏手、天徳寺の裏山にあたる。
その外観。


 

城に行く正式な道はない。
谷間の林道を歩くと、右手に入る林業用の作業道がある。
(赤矢印)
ここを斜めに登っていくと、縄張り図の ”平場” まで行ける





この平場は、資料、サイトによっては城の遺構と判断している。
でも、たぶんダメ。
主要部から離れすぎているので、自然の地形、かつての畑?または林業用に加工された平地の跡のようだ。
少なくとも城の物であるとは、断言できない。


 
◆寺山城全体
【解説】 




 
さて、平場から主郭方向に向かう。
細い尾根を上り詰めると、堀切が見えてきた。
 


 
堀切2である。
高さ10mほどあろうか。
小城にしては、かなりの規模のものである。
ただ、両端は竪堀にはなっていない。

壁面はほぼ岩盤となっおり、かなりの迫力がある。








 

堀切2を上がると、すぐ主郭前の堀切1である。
堀の深さは浅くなるが、主郭側の切岸は高く、
やはり岩盤となっている。
  

 




堀切1から、堀切2方面を望む

二重堀ということだろう。
 



 

主郭はとにかく狭い。
人が住むというよりは、本当に物見ができる程度の空間だ。
その南の一段下の郭の方が、主郭にふさわしいのかもしれない。


 
 



最下南の腰曲輪。
幅も狭く、人が住むエリアというよりは、
防御の逆茂木とか、柵を設置する空間という感じに見える。
 

城下の天徳寺に北条氏邦の文書が残るという。
ここは、後北条氏配下の城なのだろう。
   

【既存縄張り図評価⠀】
平場を城の遺構のように書いている資料やサイトが多いが、城郭遺構とは断言できないものである。
 




久昌寺城なのかな??sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください


 これ、ホント城かどうか怪しい・・・  2023/1/21     2022/3/17アップ
 
通称”久昌寺砦”と言われている城跡??にやってきた。
秩父札所二五番 久昌寺の対面の山だ。


  

【管理人のアプローチ】

久昌寺観音堂横の山が、城という。
細長く東西に伸びる舌状台地である。
城には、池に沿った林道を谷のどんつきまで歩き、そこから台地の尾根に取り付けば、簡単に到着できる。



 

【解説】   
 




さて、最下段の曲輪である。
非常に小さな堀?3である。
写真左手は、土橋のようになっているが、
余りにも貧素な堀で、城の防御とは言い難い。
 




 そこから上位の曲輪を見上げる。
徐々に高くなっている。
二段の削平地が続く
 


 最高所手前の堀?2である。
この上がセオリーで行くと主郭となる。
背後にはもう一本、堀?3がある。
 なにしろ、吹けば飛ぶような堀。 (by美空ひばり)
 そして小さな曲輪群である。
 一応城としての体は整っているが、貧弱すぎる。


 周りが寺で象徴されるように、この場所は聖地であったようだ。
 管理人は城というよりは、”宗教施設”だったのでは?と推理する。

 宗教に関する建物(お堂や祈願所)がここに建てられ、それを順繰りに礼拝する施設があったのではなかろうか。
 施設を仕切る意味で、切岸や堀?が作られたとは考えられないだろうか
 


 


最後に、写真右手が城跡??である。
とにかく謎多い所なのであった。






ここは2007年に、城として確認された模様である。
資料やサイトにも「城として」掲載されている。
もちろん、歴史など明らかになろうはずもない


もう一度言おう。
  そもそも城なのだろうか?
 【既存縄張り図評価⠀】単純な作りゆえ、既存の縄張り図に対してのコメントはなし。 そんなことより当方も図面を描いてみたものの、どうにも後味が悪い。
 



贄川城(にえがわ)sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください


 城なのかな?という疑問も・・2023/3/11    2022/3/247アップ
2023年、転勤で4月に宇都宮に帰ることになった。
埼玉県の調査も、あとわずかである。
ここで覚えた、電車でGO!の城見学。
今日が、締めのつもりで、三峰口にやってきた。
 
【⠀アプローチ】
今日のお題は贄川城(にえがわじょう)である。
ちょっと、意味深なこの城は、三峰口から歩いていけるのだ。
まず、荒川をわたり、しばらくすると贄川宿に入っていく。

  



贄川小学校背後の山が城跡と言われている。



小学校西の林道を登り詰めると、峠に出る。
ここから、この切り崩しを尾根伝えに向かえば城跡だ。

 
 

【解説】   
  最初にお断りしておこう。
現地の縄張り調査結果から判断すると、管理人としては、ここが城なのか?という疑問が払拭できないでいる。
たしかに、この山が「城山」と呼ばれていた事や、麓の城郭関連地名や屋号から、ここを城とする推理は十分成り立つのだが、
正直、縄張り調査結果からは、城跡としての決定的な証拠が見いだせないでいる。

 


 

まず、非常に浅いのだが、堀切と思える場所にでる。
 

 
 

堀切の北面である。
これが、城だという(あかし)ということだろう。
しかし、地表面観察では、すこぶる浅い。
自然地形と言われれば、そう見えなくもない。
発掘等で証明してもらいたいものだ

 

 
 

◆山アプリ YAMAPから


堀切の位置はここ。
尾根続きとなる峠に近いところにある。
 

 
   
こから少し登ると、堀?とも思える凹地の地形に出くわす。
 

 


しかし、”堀切”とは言い難く、何と言ったらいいのだろう?
風よけ?
窪地には人が駐屯したのだろうか?

主郭につながる空間は、土橋のようにも見えるが、
太いので曲輪のようにも見える。


 
 
 
 一段上がった頂上には、「贄川城」とお手製の看板がある。
 

 
  主郭は切岸がイマイチはっきりしないが、
きれいな、平らな面となっている。
 

 
 
 
主郭下の曲輪2を臨む。
切岸は割とはっきりしているのだが、
切岸両端が微妙なスロープ状になっており、加工が甘い。。
 

 
 
 
曲輪2に降りて、主郭を臨む。
ここから見ると、確かにしっかりした切岸だ。
 

 
 
3弾目から2弾目


曲輪2の先には曲輪3がある。
切岸は微妙でほぼ自然地形。
しかし、上面だけは平らな面になっている。
 

 
 
 
ここには左写真のような石組みがある。
ひょっとすると、ここに神社があったのかも知れない。

   
調査はここで終了。
北続きの堀切?を除くと、曲輪だけのものである。
人が加工を山に施しているのは間違いなさそうなのだが、久昌寺同様、本当に城なのだろうか?

堂々と此処が城であると断言できない自分がいた。

 


_________・・・________ 

   

城からの帰り道。
林道への切崩しの部分まで戻ると、この方がいらしてた。
「ここは城でしょうか?」
と尋ねてみたが、答えはない。

刺激を与えない方が良いということで、そっと、その場から離れることにした。
 

 
_______。。。________

 
熊倉城
帰りの贄川宿から、熊倉城を臨む。
最後まで煮え切らない、怪しい城?であった。
 【既存縄張り図評価⠀】単純な作りゆえ、既存の縄張り図に対してのコメントはなし。 
              そんなことより当方も図面を描いてみたものの、どうにも腑に落ちない。