埼玉県の中世城郭 



 

飯能市 その2

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。


 河又城sk  小瀬戸城sk 吉田山城sk 龍崖山城(吾野sk) 本陣山城sk  名栗根古屋城sk



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 城だねっ 2023/02/19      03/24UP!
【解説】 


 
【アプローチ】
正直、城までのちゃんとした道はないが、
麓の龍泉寺のお墓の道を、とにかく上れるだけ上がろう。

左写真中央の土が見えるところがお墓だが、ここに車もとめられる。
管理人はバイクなので、上の墓を目指し、相当標高を稼ぐことができた。
 
   

 
◆YAMAPより
写真は一部の資料では最北部(縄張り図左手)の堀としているものだ。
しかし、堀にしてはシャープさがなく、管理人は峠道と考えている。
   

 

山を進むと堀切1に出る。
   
堀切1の切岸は、南側(縄張り図右手)の壁が高い事がわかる。

そこから先は細い峰で、ほぼ自然地形と思われる。
   

   
その先に
堀切2がある。
この堀切には、削り残しの土橋形状が残る。
   




 
さらに細尾根を進むと、尾根は広がり、緩くなる。
曲輪痕もあるが、ほぼほぼここも自然地形と考える
 

 

 
ここまで見てきて言えることは、
しっかりした堀切の形態から、ここが 「城であろう」 というところ。
そして、
   堀切1、堀切2の間が、
主郭部”だということ。
 

堀切間は狭い尾根で、自然地形。
しかし、セオリーとしてはここが主郭となる。
人が長時間滞在することを想定していないのだ。
一時的に守城するために築かれた城なのだろう。

麓の龍泉寺あたりに、居館を設け、有事の退避場所として

この城が築かれたと考えられないだろうか?
   

 

______ ・・・ _______

主郭側から有間ダム方面を望む。
飯能市のここ山奥には、温泉施設や、自然を生かした施設がある。
栃木のような、結構のどかな、良い場所だ。
 本城の歴史は、全く明らかではない。
 この城のある入間川の渓谷を進めば、妻坂峠、秩父方面に抜ける事ができる。
 街道監視の城だったと想像できる。

 【既存縄張り図の評価⠀】
               このような単純な構造ゆえ、図面自体に大差はないが、

                ①最北部の溝を堀切とみるか、管理人のように峠道とみるか
                ②主郭部をどこと考えるか

               の考え方で図面の評価も変わると思う。






小瀬戸城sk  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 堀切一本っ!2023/02/19      03/18UP
【解説】 

 


  【アプローチ】
正直、城までのちゃんとした道はない。
飯能第2小学校裏手の山が城跡である。

車は山麓に置ける場所が少ないので、注意である。
まあ、田舎なのでどこかに置く場所はあるであろう。
管理人ははバイクだったので、
お断りして学校横の消防団裏の駐車場に停めさせていただいた。

 

 

 


 
わかりやすい登山道は無い。
とにかく、小学校裏の山を直登する。

広い尾根に出た時点で、左写真のような堀切が見えてきた。
 


 
大きな堀切である。
切岸もハッキリしている。
登山道がないのは事前にわかっていたので、無理くり直登する。

道なき道の登山は、エネルギー消耗が激しく、結構きつい。

 


 
東はゆるい斜面であるが、堀切は思ったより続かない。
 



主郭側から堀切を見る。
堀の中には土橋がある。
現在、主郭と対岸を結ぶ道があるが、近代の改変かも知れない。
 



主郭内である。
手前から南(写真奥)に向かって、土塁?が伸びている。
主郭は、正直綺麗な加工は見られない。
切岸が甘い。



 

主郭の南は、
岩崖があるため加工が必要無いのかと思いきや、
南東の緩い尾根側も加工していないことがわかる。

 ふたたび、主郭の堀切である。
結局、正直、城としての加工は、北の境の堀切周辺だけ。
城らしいところは、この堀切一本だけなのである。


 
ちなみに、本城の歴史は全くわかっていない。

(付記)
 
この城を調査している時に、地元のハンターと狩猟犬に出会った。
 猪がいっぱいいるので、早く山を降りたほうが良いと言われた。
 ちょうど調査も終わりかけていたので、早々に退散した筆者なのであった。

 【既存縄張り図の評価⠀】堀切一本なので、間違いようがないが、南の尾根続きを曲輪と捉えるか否かで、評価が分かれている。




龍崖山城(吾野)sk  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 巨岩の壁 2022/12/11
 【解説】
 


 龍崖山城は、西武秩父線吾野駅の南裏の山、標高354mにある。
 


 城に行くには吾野駅を降り、国道299を東に向かい、吾野宿にはいったところで、
西武線の線路下をくぐるトンネルを探そう。
隣に白髭神社もあるのですぐわかると思う
 


 トンネルをくぐると、白い倉庫?と集合住宅がある。
車の場合はここに置かせてもらうのが良いだろう

ここも、通称中屋敷というらしい。
 


城への明確な山道はない。
白い建物の裏の藪に突入するしかない。
すぐに視界が広がる。
山に取り付けば、山作業用の道だろうか、ピンクテープがある。
よって、これをたどっていけば、岡部屋敷、山上の城へ導いてくれる。
 




 
山道をたどり、まず到着したのが通称岡部屋敷。
なるほど広い平地であるが、果たして城のものだろうか?という疑問が。
大河原城の時もそうだったが、
なにしろ山仕事のために平地にしたのでは?と疑いたくなる。
誰も来ないようなこの場所に、神社が祀られている。
ということは、林業が盛んな近代に、作業場としてここを整地した可能性も否めない。
ぐるりと一周りしてみたが、城と結びつく明確な遺構「堀」「土塁」などが見当たらないのである。


 





 
「極めて怪しい・・・・」

ただ、他の資料を見ると、当地で発掘調査がされているということなので、
県としても遺跡と捉えているのだろう。
ただ、調査で何が出土されたかは、筆者は持ち合わせがない。
 





さて、ここから山頂へ向かった。
主郭は削平がしっかりされた平坦となっている。
主郭東側の尾根には遺構が施されていない。



城の遺構は西の尾根続きになる。
西の尾根の降り口には、
おそらく「食い違い門」だったような凹凸が残る。

主郭北、西は「曲輪」としては極端に遺構が甘くなる。
縄張り図泣かせの残存状態だ。
 





 

主郭から一段降りた曲輪には、
岩でできた土塁状の遺構と、曲輪の境界に竪堀が一条発生する。
結構しっかりした遺構なのであるが、この竪堀の意味がよくわからない。
竪堀のある南斜面は北面より急峻である。
にも関わらず、敵は南から攻めてくると想定したのだろうか?
  

さらに斜面を下ると、もう一条堀切と竪堀が出現する。
この堀切にはきちんと土橋が設けられる。
圧巻なのは北面の巨岩である。
恐ろしい程の迫力で、元々山にあったものなのだろうが、
堀切と連動させ、張り出している部分を横矢のように使ったのだろう。



 


 
ここにも、南面にのみ長い竪堀がある。
しかもこの竪堀の西側壁面は、寄居町の花園城のように、
岩盤をくり抜いているのだ。
このような小城に、ここまで力を注ぐ加工がなぜ必要だったのだろう?

この城の城主は「岡部屋敷」に象徴されるように岡部氏の関与が認められるそうだ。
しかし、岡部氏とは、南北朝時代に出てくる豪族で、戦国期にこの城の城主であった確証はないそうだ。
これだけの加工が施されていることから、”戦国期には廃城になっていた・・・” とするのは、余りにも乱暴な気がするのである。

要は、歴史については、よくわかっていない。

 【既存縄張り図の評価⠀】城の遺構として”岡部屋敷”と堂々と書いているけど、当方は城の遺構としては怪しいと思ってます。



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 岩塊は城域だ!2022/12/25
【解説】 
 


 吉田山城に登るには、吾野駅で降り、そこから御嶽神社を目指す。
 




駅から1.5kmほど歩くと、御嶽神社の鳥居。
ここからは本社を目指し、ひたすら階段を登る。

後から気づいたが、階段だけでなく、横に尾根道もある。
尾根道で上がったほうが、足に負担が無さそうである。
階段だと直登で、しかも一段の段幅が大きく、結構キツイ。



 
本社に着いた。
ここからは、社の右手裏から山道に入る。
 


 しばらく登ると、吉田山山頂である。
しかし、ここには遺構は皆無。
城へは、写真左手奥の尾根を下ることになる。
 


 
山頂から70mほど下ると、一本目の堀切がある。
浅い堀切であるが、土橋も伴う。
左写真は城内側から撮影。
 


 
城外側から同じく土橋と堀切を望む。
堀切の両側は竪堀になってない。
 



 一本目の堀切を上がり、
郭1から10mほどで、
二本目の堀切がある。
こちらの方が深い。

 



二本目の堀切を別角度から撮影する。
同じく、両サイドは竪堀になっていない。
 








さて、問題はここから。

二本目の堀切の先は、細い稜線だ。
郭2を越えると、左写真のような岩だらけとなる。
この状況が、堀切から約70m続く。
一部の資料では、ここを城外と判断しているようである。

しかし、この岩陰に潜めば結構な防御設備になるし、
この場所も城ではないか???と言うのが管理人の意見。
わざわざこのような場所を選ぶこと自体、築城の意図を感じるのである。

あとで考察するが、管理人はこの岩塊エリアを物見の施設と考えている。






 




さて、本尾根の北側斜面に一際大きな岩がある。
高さは5m程もあろうか。



 
そこからは雪崩のように岩がゴロゴロと斜面を覆う。

 


 
さらにその下。
自然地形?かもしれないが、曲輪状の空間がある・
 


 現地成果はこれ。

写真は吉田山山頂に戻り、撮影したものである。

が、ここで疑問が。。。。


吉田山山頂に遺構が無いのに、  なんで、堀切が中腹にあるんだ???

一部の論考では地元の伝説から、吉田山城は ”築城途中” とする物がある。
築城が放棄されたために、二本の堀切までという事なのだろう。※

   しかし、本当なのか?


(※中世城郭研究 第一六号 中世城郭研究会 2002年)


私は閃いた。

目をつけたのは、
吾野龍害城と吉田山城の位置関係

右は国土地理院のサイトで、断面を切ってみた結果である。

実は
   吉田山山頂からは途中の山塊に阻まれ
吾野龍崖城は直接見えないのである


 






ところが、
  吉田山城の先端からは
吾野龍崖城が見えるのだ。 

山頂と山腹のわずかな差が、有視界の明暗を分けている。

このことから、吉田山城の先端の岩塊は城域と判断した。
物見として、城の施設として使われていたに違いない。
また、山の先端の方が高麗川べりの谷間もよく監視できる。

よって
①吾野龍崖城とのネットワーク
②高麗川沿いの街道監視

①②の理由で、吉田山城は、
山の中腹にあえて築城されたと思われる。

築城途中だからではない。
  意思を持って吉田山城は
ここに作られたのだ。
 
堀切で囲まれた曲輪は、
物見の仕事を終えた兵たちの休息or駐屯場所だったのだろう。





 
 【新たな疑問】
そこで新たな疑問が浮かんできた。

それは、

吾野龍崖城-吉田山城と並んでいるわけだから、その先にもネットワークがある可能性だ。

そこで思いつくのが、本陣山城である。 
ここは近年に確認された城であるが、高麗川にそった細い尾根上にある。
しかし、先ほどの断面解析を行うと、以下のとおりとなった。

本陣山城と吉田山城の相互の有視界は、手前の山に阻まれてギリギリである。

この間はネットワークは無かったのだろうか?
この疑問に対しては、高麗川対岸の山や、本陣山周辺の調査※が必要なのだろう。→本陣山城に続く。

(※ちなみに図の本陣山山頂には、遺構が無いことが先行確認されている)

◆本陣山城と吉田山城の位置関係


  

【既存縄張り図の評価⠀】単純な構造なので、縄張り図はどれもそこそこだが、中世城郭研究の第16号の吉田山が築城途中とする論考には異論がある。 





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 細尾根の城 2023/01/02
 【解説】
 


 本陣山城は、西武秩父線西吾野駅の西にある。
今日も今日とて、電車でGO!作戦。
いつもと趣向を変え、
八高線で小川町ー東飯能、西武線で東飯能ー西吾野
で攻めてみた。
毎度のことだが、二時間近く掛かる。
時間はかかるが、寒くない。
これがやめられない
 


西吾野駅に着いた。
時刻は9:16である。

 


 西吾野駅からは、第二目的地の「本陣山」(標高442m)も見える。

ここから城に行くにはしばらく、国道299を伝い秩父方面に歩く。
 


城への明確な山道はない。
この特別養護老人ホーム「吾野園」の橋を渡る。
白い建物の裏に藪があるので、管理人はそこから山に突入した。

最初は急だが、すぐ尾根道にでて山作業用の道になる。
ピンクテープがある。
これをたどり、隣の尾根に取り付けば、本陣山城である。
   尾根に取り付くと、早速一本目の堀切1
 
山の西斜面だけ竪堀になっているが、東面は竪堀がなく、山道が続く。
ここは堀切ではなく、峠道の可能性もある。
しかし、川に阻まれたこんな所に峠道があるのも、おかしな話である。

◆YAMAPより









そこで管理人は、この道は河原へ降りる道だったと考える。
高麗川はかつて河川交通が盛ん
であったと考えられるからだ。
船からの物資を運ぶ道だったと思っている。

また、山の地図によれば、この山の斜面東を「本陣平」と呼ぶらしい。
調査はしていないが、山下にこの運河のためのスペースがあるのかもしれない。



※新装版 奥武蔵登山詳細図 武甲山・武川岳・伊豆ヶ岳・丸山 池田和峰 作成・解説・踏査 より




 

堀切1から小ピークを越え70mほど進むと、城内最大の
堀切2が現れる。
左は城外側の写真








城内側からの撮影である。








 

◆YAMAPより

堀切2の場所はピークから少し降りたこの辺である。
ピーク下なので、城外方向が高所になる。
このため大きな堀を築くことになったのだろうが、そもそも何でこのようなところに城が必要だったのだろう?。
 



 


 

堀切2を越えると
主郭部である。
まず、写真の小郭がある。
写真右手は低いが土塁のようである



 


 主郭内部である。
決して広くはないが、しっかりと削平されている。

 


 
主郭南部には写真のような凹みがある。
狼煙の跡と推理する人もいるが、筆者は虎口跡ではないかと考える。
 


 

反対側の主郭北の入口である。
道が巻いている。


 
対岸に壁のような切岸が見える


 
自然地形かもしれないが、この虎口に反応するかのように
斜面にができている。
ただし、片側だけなので竪堀とは言えない。
斜面の横移動を防ぐものか?

 
さて、ここから先には三本目の堀切3がある。
小さな堀切であるが、間違いない。
左は城内側から撮影したもの。













これは城外側から撮影。














この堀切3の位置がここである。
かなり、尾根の先端に近いところである。


◆YAMAPより






 




堀切3から先は岩盤の細尾根となる。
ちょっと通るのも危険を感じる場所なので、踏査の際は注意したい。
 


その細尾根の途中に大きな岩盤がある。
この城を守る防壁といえよう。


調査はここで終了。
 
   前述より
さて、本陣山城の調査を終え、管理人は本陣山本体へ。
442m峰。
名前は城っぽい山であるが、遺構は皆無であった。





 

また、本陣山下のちょっと気になる330m峰を見に行った。
ここにも遺構はない。














ここ周辺を踏査した訳�は以下である。

吉田山城の項で、本陣山城とのネットワークをする際、邪魔をしてそうと考えたのが、この330m峰の存在だったのである。

・・・しかし、遺構は皆無。
管理人の推理は ”大ハズレ” となった。
こう言うチャレンジングな推理は難しい・・・・。

■国土地理院断面ツールより
◆YAMAPより
 
【既存縄張り図の評価⠀】縄張り図自体に大きな差はないが、最南の堀切1を城のものとするか、否か。。。評価の分かれるところであろう。



根古屋城?(名栗)sk  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 二つの竜害山!2023/01/15
【解説】 

 
ここは飯能の山奥にある。

城本、縄張り資料から目指す山を確定した。

今日はあいにくの曇り空。
午後からは雨の予報だった。

しかし、飯能の町を過ぎたあたりで、ほぼ霧雨のような雨になってしまった。

”帰ろうか?いや、折角ここまできたんだ。” 

無収穫は嫌だ。

このくらいの雨なら、山に入れば木の葉で雨は凌げる。

・・・・・・という事で、強行することに。。。。。

 

 


 

車は諏訪神社に停められる。

目指す山は写真に写る帽子のように尖った山だ。

 

 

 ◆YAMAPより


 

登山道がないのは事前にわかっていたので、無理くり直登する。

道なき道の登山は、エネルギー消耗が激しく、結構きつい。

 
◆下から見ると堀切っぽく見える段段



 
なんとか、山頂近くになると、堀切?か?
と思える段が見えてくる。
しかし、上がってみると、なんとも情けない。
両側に縦堀の痕跡も無いのである。
堀切というより、曲輪痕?だろうか。
 

 ここのやや右手から腰郭のような帯状の曲輪がはじまる。
やがて主郭?の北側までまわり、一段高くなって主郭?に繋がる。
虎口だろうか?

なんともはっきりしない。
 


 
主郭?っぽい山頂部は平らなのだが、
基本は未成形だと思われる。
 


 

先端に大きな穴が開いているが、
木を抜いた跡、狼煙の跡という所で意見が分かれている。
実はこの山は、”お経山”ともいうらしいので、
お焚き上げで祈祷でもした跡とも考えられるが、わからない。


 
さて、遺構としてはこれまでである。
主郭西の山続きは、何もない。

ただ、西から望む主郭は結構しっかりした切岸っぽくみえる。






 
 
 
◆YAMAPより
が図の調査した根古屋城




 

調査を終え、山の地図を見返すと、衝撃的な事実が!

私が絶対的な信頼を置いている山の地図YAMAPでは、
なんと隣の山も、お経山(竜崖山)なのである。

諏訪神社の裏山、車を置いた駐車場の目の前の山じゃん!

 

   今度目指すは根古屋城?の対岸のこの山である。
雨がひどくなってきた。
なんで、こんな時に二つも山に登らにゃならんのか・・・・
 


 こちらも目立った山道がないので、
神社裏から回り込んで山登り。
 
◆頂上に何もなし

 
直登を試みたが、
結局頂上には何もない。

 

 

  過去にこの山を登った人の、ネット記録を見た。
私は気づかなかったのだが、このような銘板があったようだ。

写真にお経山、竜崖山と書かれている!
   

家に帰り、別の地図※を見たら、お経山竜崖山は、
今日の根古屋城の位置になっている。

諏訪神社の裏山ではない。

以上から、竜崖山は二つある事になる。
長い間に混同された疑いがある。
似たような山だし。

ま、どちらにしても遺構は無いに等しい。


昭文社 山と高原地図22 奥武蔵・秩父 武甲山
  調査執筆・奥武蔵研究会


 【既存縄張り図の評価】
                城にするにはパンチが無さすぎ。
                
正直言っていいですか?
                
ほんと、ここは城跡なのでしょうか????(超疑問)