長瀞町
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
天神山城 | 仲山城sk |
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すんげーっ! 2019/4/19 4/29 5/2 5/11 | ||||
【プロローグ】 本ページのコラム よもやま話9◆で紹介した天神山城。 昭和50年(1975年)当時、若かりし管理人が撮影した写真を掲載した。
これが、40年後の今の姿。 情けないというか、はっきり言って 「怖い!」 訪れる人もなく、建物は崩れ廃墟化し、心霊スポットとしても紹介される。 かつての姿は見る影もない。 今は、復興天守ブームのような時代であるがこうはなって欲しくないものである。 言うまでもなく、ここを訪れる人は極度に少ない。 結局、くだらない観光施設のため、貴重な遺構が失われただけとなってしまった。。。。。。。。。。。 図面には模擬天守などと書いてしまったが、模造したわけでもなく、何の根拠もないただの天守風建物なのである。 長瀞町のホームページなどでは、この城を全く積極的に宣伝していない。 長瀞自体がライン下りや宝登山など、他にもたくさんの観光地が豊富であり、ここ天神山は ”町の負の遺産” と評価されているからだろう。 城には罪はない・・・・・ まったく可愛そうだ。 |
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【解説】 管理人は埼玉に引越し、そう、40年ぶりに天神山城に行くことにした。 天神山城は後北条氏の城である。 当初、天神山は藤田氏の居城であったが、北条氏邦を養子に迎え入れ、藤田氏自体は用土に移転。 その後、氏邦も天神山から鉢形城に移り、北条氏光(or 氏堯?)にその後を任せている。
訪城には、城の北方、白鳥神社から山に取り付くことをお勧めする。 神社裏には駐車場もあり、そこから続く山道がある。 前段でも述べたが、かつて山頂には、観光施設として天守風建物も作られた。 このため、ネット検索すると頂上まで続く広い道が、グーグルMAP等で映し出される。
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◆目次 ・・ここからは、だらだら長いので目次をつけました。お好みのところからどうぞ! ・主郭周り ・二の郭 ・三の郭 ・主峰 西斜面 ・主郭東の尾根 ・出郭 ・天神山東側谷あいの調査 ・天神山東の山塊の調査 ・過去図との比較 ・エピローグ |
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主郭周り | ||||
この堀を見たときに、 さらに小郭を経て最高所に至る。
ここに天守風建物とつなぐコンクリート製の橋があるが、何せ古いので気を付けて渡ろう。
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二の郭 | ||||
考察していきたい。 |
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三の郭 | ||||
それでも二の郭の南には、卵型の 三の郭 が残る。 全周を堀で囲み、周り込みを避けるための竪堀も良好に残る。 ◆三の郭内の破壊痕。郭内を削られた跡が残る。
三の郭内は土取り?、または窯の跡?か、大きくえぐられてしまっている。 さらに言うと、三の西斜面には登り窯の跡が複数残る。 つまり、この城は観光施設だけでなく、窯業によっても破壊を受けているのだ。 |
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主峰西斜面 | ||||
まず埼玉地方に多い、小尾根を潰す 竪堀C である。
この竪堀のドンつきは、石垣となっている。
これらの石垣が、土留め補強のために作られたものか、
あるのはほとんど西斜面であり、図の中に 石垣Fの文字数でお分かりになろう。 地表面に見えるのは一部で、全斜面に施されていた可能性もある。 そこで思ったのが、この西斜面は下界から望める場所であり、視覚的効果を狙った可能性もある??のでは?と思っている。 主郭西直下も切り立った崖であり、それと合わせ要害さを誇示していたのではなかろうか。 |
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主郭東の尾根 | ||||
主郭からは東に尾根が延びる。 この尾根には、いくつかの階段状の曲輪と堀切が配される。
そこを下ると、堀を伴った小郭に出る。 ★マウスを乗せよう・・・・ 堀切G上の土橋
回り込みを嫌っているようで、尾根を潰すように北斜面にも竪堀一本施されている。 |
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秩父志には「出城アト」との記載があり、この郭の存在は、昔から知られていた。 この出郭は、天神山主峰から東に派生する緩い尾根を加工している。 天神山本体への道はたどれないが、おそらく急斜面を上る道が施されていただろう。 出郭と天神山本体は、大きな堀切 b で分断されている。
出郭を見ていると本当に清々しい気持ちになる。 しかし、既存の図面でここ出郭を的確に表現できている図面は無い。 という意味では、私の図面がここ出郭構造の初公開の図面と言えよう。(ドヤ顔)
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天神山東側谷あいの調査 | ||||
出郭と谷を隔てて天神山と相対する山塊がある。 この城跡を調査する前に感じていたのが、この谷あいも城として取り入れられていたのでは?という事。 栃木県では両尾根に挟まれた谷あいを城域にする例が多くある。 埼玉県では、小倉城などがその類いであろうか。 谷が城の弱点であれば、谷あいにも何かしらの防御施設を作る例がある。
管理人の予想したのが黄色の谷エリア。 秩父志では、姿は「田」と表現されている。 期待はかなり薄いものの、確かめ算ということで調査した。 ◆国土地理院 電子国土より 調査の結果、遺構はやはり見当たらなかった。 現在は休耕田となっている場所が多く、 谷の中にはg、hから流れ込んだ水が沢を形成している。 この谷中から天神山城主郭部を望む。 頂上部は見えないが、天気もよく最高である。 |
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天神山の東の山塊の調査 | ||||
谷に遺構は無かったが、更なる確かめ算ということで、谷の東の尾根筋に取り付いてみた。 ひょっとすると、谷を隔てた対岸に、遺構があるかもしれない。
結果であるが、遺構は全く無い。 要するに、現在、天神山本体にしか遺構はなさそうだ。 |
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過去図との比較 | ||||
①群馬県古城塁址の研究 補遺編下巻 さて、破壊された二の郭を、自分の目で縄張り図にしたと思われる資料は、山崎一氏と下の西ヶ谷氏のものだけである。(私の手持ちではであるが・・・) 山崎氏に関して言えば、当時、これだけの縄張り図を書ける人はいなかった。 大体からして、縄張り図自体を本にしようという人が居なかった時代なのである。 そんな時代に、これだけの本を出せるのは、本当に凄いことだと思う。 ◆当時の城のバイブル、群馬県古城塁址の研究 ◆群馬県古城塁址の研究 補遺編 山崎一著/発行書 群馬県文化事業振興会/昭和五四年より引用 天神山城の山崎氏の調査年月日は1972年。 管理人が最初に城を訪ねた三年前に書かれた縄張り図である。 出郭など、見落としがたくさんあるが、現地に赴き描かれていることは間違いない。 「模擬天守」と見えることから、このころからインチキ天守は建っており、破壊は進んでいた。 しかしながら図面をよく見ると、二の郭の状況は現況と明らかに違っている。 三の郭も今より状況は良さそうである。 明らかに山崎氏は当時の現況を描いていると判断した。 それを管理人の図面と比べて見ると、二の郭は下図の赤線が堀だったと想像できる。 細かな事は今となっては何も語れないだろうが、二の郭は、かつて堀で分断されていた。 赤線に挟まれた真ん中の小郭は、機能的に馬出しにも見える。 橋なのか、土橋なのか印刷が悪くて潰れているが、小郭に連絡する物があったようにも見える。 ②関東の名城 ◆関東の名城 西ヶ谷恭弘著/秋田書店/昭和四八年より引用
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【エピローグ】 案内版一つなく、町に ”負の遺産” のレッテルを貼られてしまった天神山城。 40年前の思い出を胸に、今回再訪してみて、本当に良かった。 その遺構・・・特に出郭は、極めて技巧的であり、眩い光を放っている。 しかし、その光を街の人が気づいてくれるのは、一体いつの日だろう。 再度言わせていただこう。 ” 城に罪はない。。。” のだ。 (完了) |
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【既存縄張り図の評価】 はっきり申し上げて、2019年時点の既存天神山縄張り図は、私の知る限り マダマダ感満載 な図面ばかり。 天神山本体遺構、出郭の見落とし、遺構解釈の誤り、形状の誤り。。。基本的な誤りや中途半端なものが、いかに多いか。 管理人の図面も完璧と言えない事は承知の上だが、これらの物よりは断然マシだと思う。 本ページの目的は、埼玉のマダマダ感満載図面のブラッシュアップである。 時間も掛かり苦労したが、今回描いてみて本当に良かった!!と思う。 |
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古臭い匂いがする。。。 2019/5/11 |
板碑の前の道を北に向かう。 諏訪神社を左手に見ながら進むと、細い林道になる。
すると、全く知らなかったがカタクリの群生地があるようで、バイクは、この小スペースにとめさせていただいた。 新緑のみどりが眩しい。 カタクリの時期はとうに過ぎていたが、群落はどのようなものだったのだろうか? 傍らを見れば、カタクリが種子をつけていた。 ちなみに普通乗用車で来るのは不可能と言って良い。
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【解説】 さて、先ほどの仲山城の案内看板まで戻り、山道を登る。
しかし、実際に堀底に立つと大したことはない。 低い壁側は50cmあろうか、なかろうか・・・・・かなり埋まっている。
ここに物見でも作ったのだろう。
堀切を南に渡ると、明らかに削平された曲輪に出る。
特に西斜面は傾斜が東斜面より緩く、壁がしっかりしていない。 野上の石塔婆に刻まれた年号も1363年。 仲山城ゆかりの人物の創建とされることから、この城もこの時期の築城というのは頷ける。
さて、近隣の天神山城、金尾山城との位置関係から、この城が ”後北条戦線として加えられた” という本、情報もある様だが、 城の古臭さは、それ故だと思うのである。
遺構は何も無いらしいが(2019年管理人は未調査)、その名前と立地条件から、後北条戦線のネットワークは、こちらであろう。 最後に埼玉県の調査した縄張り図(↓)である。 管理人の調査とほぼ一緒であり、よく書けていると思う。 ◆歩いて廻る「比企の中世・再発見」/博物館周辺文化財の複合的活用事業実行委員会 (埼玉県立嵐山史跡の博物館・比企地区各市町村教育委員会)発行 /平成20年)より引用 (完了) |
【既存縄張り図の評価】管理人調査とほぼ一致する。 |
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