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佐野市 | ㉔会沢の城郭遺構 |
鹿沼市 | ㉕布施谷城 |
鹿沼市 | ㉖落ノ沢城 |
鹿沼市 | ㉗上久我富沢城 |
CS立体図調査ページ その2 |
㉗CS立体図で見つけた場所 久我城を攻める陣城か? 2024/11/07 | |
◆CS立体図 および地理院地図 いつものようにCS立体図に怪しい影を発見。 尾根上に堀切が一本見える。 しかも、2か所だ! 地形図をよく見ると、両方とも久我城の真正面。 これは、なにかあるな・・・・ 早速調査を試みた。 場所は鹿沼市上久我の富沢である。 |
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アプローチであるが、 車は、林道途中の図 P 位置に置かせていただいた。 丁度、林道が交わるところで、広くなっている |
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地図には出ていないが P から西に歩くと、 林道が二手に別れる。 右に向かう道がお分かりになりだろうか。(緑の草の生えている道) その先の尾根に取り付けば、迷わず城に行ける。、 |
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【縄張り図】 作成中 現地生データ |
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尾根の先端に取り付き、ピークまで来た。 すると、綺麗な平坦地が現れる。 あまりに平らなので、これはやはり城なのでは? と思ってしまう。 ←図はYAMAPデータ |
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西に進むと、堀切が現れる。 シッカリ削られた堀である。 ←図はYAMAPデータ |
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両端は傾斜しているものの、完全な竪堀にはなっていない。 山の切通とも考えられるが、道がつながっておらず、可能性は低い。 やはり、堀切で良いと判断した。 もう、ココが城跡であることは間違いない! |
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西に続く尾根から、堀切を撮影。 きっちり、シッカリだ! |
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堀切から西は細尾根になっていて、遺構は無いようだ | |
再び先端部に戻ると、 一段切岸が見受けられる。 尾根を伝ってくる敵を ここで一旦受け止めるためだろう。 ←図はYAMAPデータ |
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もう一つの怪しい場所 | |
ココには、もう一か所、怪しい場所がある。 上地図の●の部分である。 地図には載っていないが、ココには ”熊野神社” がある。 |
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怪しいのは、熊野神社から始まる舌状台地の根元に、 堀切?のような陰影が見えることだ。 |
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←図はYAMAPデータ 現地観察の結果、 これは自然の窪み。 しかも、両側に山道がつながることから、 昔の山道痕と判断した。 ここは、城ではない。 CS立体図では、このような地形も 堀切のように陰影を映し出す。 紛らわしい。 |
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【考察】 | |
さて、ここで、この富沢城の意味を考える。 城の位置なのであるが、北は同標高の山に阻まれ、展望は効かない。 南も同様。 こんな山の中なので、全く視界が効かない。 唯一見えるとすれば、そう、久我城の方向のみなのである。 もし、富沢城が久我城の支城であったならば、 金ヶ沢城のように、久我城の死角を補填する場所に選地するだろう。 しかし、富沢城は違う。 久我城方向しか見えないのだ。 ▮現地からの眺望。●が久我城 これは何を意味するのか? そう、富沢城は久我城の支城では無いという事になる。 久我城を攻撃するため、抑止力として、久我城から見える所に城を作ったのだ。 私にはそうしか見えない。 「図説・栃木の城郭」(国書刊行会 2024 余湖浩一、渡邉昌樹)では、 老沢城も、久我城や金ヶ沢城と異質な縄張りであり、久我城を攻めるための城ではなかろうか?と書かせていただいた。 理由は、支城にしては、老沢城が久我城と川を挟んでいるところに疑問を抱いたのだ。 支城であれば、連絡が取りやすい所に城を築くのが定石だ。 それなにに、なんで、川など挟んでるんだろう??・・・と思っていた。 よって、久我城攻めとしての陣城が、富沢城、老沢城ではなかろうか。 可能性としては、天正15年(1587)に久我氏は皆川広照の攻撃を受け滅びたというが、この時に築かれたのでは? と最近思ってる。 いずれにしても、上久我富沢城、老沢城が久我城の支城とは思えなくなった。 ←図は国土地理院 |
㉖CS立体図で見つけた場所 粟野城の支城? 2024/11/04 | |
◆CS立体図 および地理院地図 いつものようにCS立体図に怪しい影を発見。 尾根上に堀切が一本見える。 早速調査を試みた。 場所は鹿沼市久野落ノ沢だ。 丁度、粟野城、久野寄居城の並びであり、その中間地点になる。 |
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アダチ産業さんへの道の途中に 車は置かせていただいた。 沢をわたり山に直登。 図の●位置まで来たとき、 写真の堀切と遭遇した。 ◆←図はYAMAP |
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きっちりとした堀切で、もはや城であることは疑いようが無い。 堀の北側には高さをそろえるように、土塁が設けらいる。 |
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【現地縄張り図】 作成中 現地生データ |
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目的の頂に着いた。 しかし、周りは切岸とは言えない。 正直言って自然地形。 でも、下の堀切は間違いなく城のものなので、 多分ここが主郭なんだろう。 ◆←図はYAMAP |
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管理人はさらに山を西に移動。 すると、再び堀切が現れる ◆←図はYAMAP |
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北東の尾根の堀切より規模はでかい。 でも、ちょっと鋭さが無い。 |
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今度は、南東の尾根を下ってみた。 (右写真が尾根の様子) 幅の広い尾根を下って●の地点まで来た。 これがなんとも言えない結果に。。。 「何もない」 ホントに何もない。 結果的に堀切2本の城となってしまった。 ◆←図はYAMAP |
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上記●の地点は、写真のように平地に均され ベンチが設置されている。 ここからは、麓まで林道が伸びている。 憩いの場?であろうか? いずれにしても 近代に改変されているのは明らかで、 この時に堀切等が潰されている可能性も否めない。 しかし、状況的に見て、元々遺構は無さそうな雰囲気がある。 |
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考察 | |
さて、以前から粟野城と久野寄居城の間に、ぽっかり口を空けている区間が気になっていた。 今回の、落ノ沢城の発見で、この悩みが解消された事になる。 こうしてみると、この田園地帯から立ち上がる山々に等間隔に城が並ぶのがお分かりであろう。 これは偶然であろうか? 私にはこの配置が1つの戦線と考えられる。 ただ、なんの戦線かわからない。 滝尾山の南摩氏と何かあった? それとも皆川氏側の対宇都宮氏防衛線なのだろうか? どうもこの辺りの解析は管理人は苦手。 どなたか、お教え願いたい。 ◆図は国土地理院 |
布施谷城(仮称) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
㉕CS立体図で見つけた場所 大塚城の出城? 2024/10/26 | |
いつものようにCS立体図に怪しい影を発見。 早速調査を試みた。 雨上がりの中、ヒルに襲われながらの調査であった。。。。 |
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この城へは、粕尾コミュニティセンター横の林道から入るしかないようだ。 獣柵のフックを外させていただき、柵の中に入らせていただいた。 もちろん、中に入ったら必ずフックは元に戻そう。 |
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林道右手の沢を越え、 山腹を登っていくと、上方に小屋が見えてくる。 こんなとこに?? |
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登りきってみると小さな神社であった。 神社の名前は、わからず。 荒れていて、最近はお参りもないようだ。 麓から直登する道があるような無いような感じにも見える。 |
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【現地縄張り図】 |
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神社から東に進むが、頂上部は全くの自然地形である。 曲輪として加工された痕跡はなさそう。 東端に、もう一つこ潰れた小屋?の跡のような残骸がある。 もう一棟、神社?があったのかな? |
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その神社跡?のすぐ脇に堀切があった! |
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深さは2mほどで、シッカリしている。 両岸の高さはほぼ一緒である。 |
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よく見ると、東側の壁上には土塁の高まりがある。 堀両岸の高さを一緒にして、木橋を架けていたのかもしれない。 |
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神社があるので、ここは堀切ではなく 「切通し」 の可能性も否定できないな、と思った。 しかし、堀の端から道が続くわけでもなく、 なにより、この場所に切通しを作る意味がわからない。 よって、管理人はココを城跡と判断した。 仮称で「布施谷城」としておこう しかしここ最近、北村南城や会沢の城郭遺構など、 堀切一本の城ばかり見ているなぁ。 |
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【考察】 | |
ここ近隣には大塚城がある。 布施谷城は、この大塚城の支城では?ということは容易い。 地形図を見てみよう。 粟野の谷には城郭群があることが知られている。 このホームページに掲載しているだけで、これだけの城がある。 今回見つけた布施谷城はちょうど、大塚城と粕尾城の真ん中にあたる。 大塚城は佐野氏系の城と考えられているが、粕尾城については戦国期その歴史は明らかではない。 さて、地形図をもう少し詳しく見ると(下図)、大塚城と粕尾城の間には、思川沿いに広い田園地帯が展開している。 大塚城と粕尾城は、お互いが見える位置にあるが、その距離は2.4km。 ちょっと有視界では苦しくなる距離かもしれない。 その中で、布施谷は両城の中間にある。 ちょうど緩く弧を描く田園地帯頂点付近に城があり、この谷あいを見渡せるような位置にある。 粕尾城と大塚城の領主が異なったとすれば、その境目の城だった可能性もある。 とにかく布施谷城は、物見程度の縄張りであることから、大塚、粕尾を何かしらの形で補佐する役目だったに違いない。 |
会沢の城郭遺構(仮称) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
㉔CS立体図で見つけた場所 アド山城の物見か? 2024/10/20 | |
CS立体図を眺めていたら、気になる陰影があった。 場所は、佐野市会沢町の山の中。 堀切と、その南の尾根には四角い居館跡のような陰影が。。。 ひょっとすると、山岳方形居館と、それを守る背後の砦跡では!? 早速調査開始だ。 ◆画像は国土地理院地図、栃木県CS立体図 |
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城には「林道 小室正雲寺線」を使うとよい。 目的地のすぐそばまで運んでくれる。 林道には駐車場スペースが確保されている。 |
なぜ、こんなところに駐車場がわざわざあるのか?? その理由は左の写真である。 ここは、アド山(アド山城)へのハイキングコースの起点となっていたのだ! |
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しかし、今日はアド山へはいかず、その反対方向の山を目指す。 写真の右手の山道があるので、それを登ることにした。 後からわかるのだが、 実は、これもハイキングコースの一部だったのだ。 |
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さて、駐車場から15分ほど登り、●位置に到着した 標高300mほどの小ピークだ。 ◆図はYAMAPデータ 見にくいが、”アド山はこっち!”の看板がある。 ここもハイキングコースの一部のようだ。 |
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【現地縄張り図】 |
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この山頂付近には、 人が引っ掻き回した様な薄い平坦面がある。 CS立体図にも陰影が映し出されているが、 「自然地形」と言われても仕方ない。 何しろ明確なものではない。 一応、「主郭部?」としよう。 ◆図はYAMAPデータ |
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次に山頂から東の尾根を下る。 すると堀切があった!! ◆図はYAMAPデータ |
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綺麗な堀切である。 場所はここである。(下図) ◆画像は栃木県CS立体図 |
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堀切を東から西方向へ望んでいる。 |
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この堀切の南に道が走っている。 ひょっとすると、ここは ”切通し?” かと思った。 しかし、道は堀切下を通過してしまう。(縄張り図を参照ください) よって、ここは”切通し”ではないと判断。 やはり正真正銘『堀切』なのである。 |
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◆図はYAMAPデーターより |
堀切をさらに東に進む。 平坦地があるが、テレビ塔の跡地のようだ。 今は跡形もないが、記念碑がある。 よって、東方向は、先ほどの堀切のみという事となった。 ◆図はYAMAPデータ |
場所は変って、南の尾根を下った平場である。 ◆図はYAMAPデータ |
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CS立体図を見ると、ここには居館のような方形の陰影があり、 期待を胸にしてみたが、城の遺構とは認めがたいものであった。 内部には祠があり、「金毘羅権現」と書いてある。 ◆画像は栃木県CS立体図 陰影は土塁囲みのようにも見えるが、全くの平坦面。 おそらく、神社の跡だ。 どちらにしろ城の遺構とは言い難い |
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山を降り、再び駐車場へ。 結局、堀切一本のみであったが、おそらく物見の跡だろう。 管理人は『会沢の城郭遺構』と命名した。 |
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【考察】 | |
ここで、下の図を見てほしい。。 ◆画像は国土地理院地図 |
会沢の城郭遺構(仮称) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
㉔CS立体図で見つけた場所 アド山城の物見か? 2024/10/20 | |
CS立体図を眺めていたら、気になる陰影があった。 場所は、佐野市会沢町の山の中。 堀切と、その南の尾根には四角い居館跡のような陰影が。。。 ひょっとすると、山岳方形居館と、それを守る背後の砦跡では!? 早速調査開始だ。 ◆画像は国土地理院地図、栃木県CS立体図 |
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城には「林道 小室正雲寺線」を使うとよい。 目的地のすぐそばまで運んでくれる。 林道には駐車場スペースが確保されている。 |
なぜ、こんなところに駐車場がわざわざあるのか?? その理由は左の写真である。 ここは、アド山(アド山城)へのハイキングコースの起点となっていたのだ! |
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しかし、今日はアド山へはいかず、その反対方向の山を目指す。 写真の右手の山道があるので、それを登ることにした。 後からわかるのだが、 実は、これもハイキングコースの一部だったのだ。 |