鹿沼市2025
那珂川町 2025
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
大越路南城補遺編 | |
大越路南城補遺編(天狗沢城改め) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
新たな遺構の発見 2025/03/21 | |
![]() ![]() ◆ 国土地理院 CS立体図から。。 2017年に調査した大越路南城(天狗沢城※)であるが、近年発表された栃木県のCS立体図、 そして、本ホームページのお客様フェニェクーティさんの情報から管理人が現地調査した結果、新たな遺構が発見された。 それを報告していきたい。 大越路南城は、2017年に報告した以上に領域の広い城であったと考えている。 ※今回の遺構の広がりから、主郭西の”天狗沢”から得た”天狗沢城”では役不足かな、と考えた。また、地元の呼称、昔から使われる呼称など、既存の名前が無い城は地名から命名した方がふさわしい。加えて、近隣の大塚城が”大越路城という別名”を持つため、本ページでは『大越路南城』 と呼称を変更させていただいた。(2025) |
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![]() ◆写真は教えていただいた獣柵入り口。 入ったら必ずヒモは縛るように |
アプローチであるが、 大越路南城の対岸の太田様に改めて入山のお願いにあがった。 2017年の時と違い、山には獣よけの柵が施された。 ありがたいことに柵の入り口と、車の置く場所を教えていただけた。 城の発見から、随分ここを訪れる人が増えたという。 しかし、最近頻発している山火事を、かなり心配されていた。 訪城の際は、皆さん、くれぐれも気を付けてほしい。 |
![]() それが、左図である。(図は旧称で天狗沢城となっている) 便宜上 ”主尾根” と呼称させていただくが、 主尾根だけが城かと思っていたが、間違いであった。 遺構は冒頭の図ように主尾根以外にもあったのである。 ではまず、主尾根の東側の尾根から見てみよう |
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【2025再調査結果】![]() |
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主尾根東 尾根A B | |
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主尾根の東側には、大きな尾根が2本主尾根に寄り添っている。 もっとも主尾根に近い東側の尾根Aには、 上部に細々とした段を持つ曲輪Xと、 その下方には、崩れてはいるものの、明らかな堀切Yが存在する。 また、さらにその東の尾根Bには、堀切Zが一本存在する これらは、尾根に取りつかれないように 簡素な造りで少人数で防御、監視をしていたと思われる。 主力はやはり、主尾根側においていたのだろう。 ![]() |
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![]() わかりづらいが 小曲輪 Xを上から。 |
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堀切 Y を上横から ![]() |
堀切 Yを西から![]() ![]() |
堀切 Y を下から![]() ![]() |
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![]() 次に尾根Bである。 堀切Zを下方から. |
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![]() 堀切Zを上方から. |
主尾根南 尾根C | |
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遺構は、主尾根の南方尾根Cにもあった。 ◆図はCS立体図、YAMAPから 尾根C 堀切Wの位置。 ![]() ![]() |
![]() 堀切W 横から ![]() |
![]() 堀切W 下から ![]() |
堡塁 | |
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![]() 主尾根からかなり離れており、 別の城とも考えられるが 位置的に見て、大越路南城の一部と考えている。 仮に、堡塁と命名した。 W・Y・Zの堀切より規模の大きい 堀切Vがある。 それ以外は自然地形である。 ◆図はYAMAP CS立体図 ![]() |
![]() 堀切Vを東横から ![]() |
![]() 堀切Vを下から ![]() |
![]() 堀切Vを東下から ![]() |
![]() 堀切Vを上方南から ![]() |
怪しい遺構 | |
![]() ![]() ◆図はCS立体図 |
![]() 実は、堡塁を登り切ったピークに 怪しい遺構がある。 道跡のような溝と、 頂部から下まで延びる竪堀状の溝で 通路を食い違いにしているように見える 長い竪堀状の溝は CS立体図にも映されている。 主尾根にも山の上から下まで竪堀が延びていた。 類似と言えば類似である。 ここにも人が配置されたのであろうか? ◆図はYAMAPより |
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怪しい遺構の頂部は、まったくの自然地形である。![]() |
【考察】 | |
今回の調査で、大越路南城は非常に領域の広い城となった。 なんで、こんなことに。。。? 答えは簡単である。 それは、この粟野の谷に、ものすごく緊張した時代があったと言うことだ。 築城者は主尾根だけでは飽き足らず、近隣の尾根にも注力した。 特に、東方面、南方面からの攻撃を警戒し、堀切や堡塁を作ったのだろう。 もう、心配で、心配でしょうがない気持ちが伝わってくる。 粟野の谷は城郭の数が非常に多い。 今回の大越路南城追加調査結果は、この緊張が、かなり切羽詰まったものだった事を表している。 しかし、何に対して緊張していたかは、謎である。 |