茂木町2025-2026

栃木県の中世城郭


茂木町 2025 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。

飯野城  神井城 小家台西城
飯村要害城 北高岡西城 高岡北城 
飯村根古屋城 北高岡東城 林城 
飯村山城 小井戸光福山城 山内雷神城
後郷城 小家台城  




小井戸光福山城sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

なんか結構おもしろい・・・2026/03/13
こちらも茨木大学の『茂木保の中世城館』の調査により報告された城である。
城名称もそのまま使わせていただく。
ただし、当HP規定により光福山砦➡光福山城とした。
確かに該当箇所の微地形表現図には、下の様に陰影がクッキリ出ている

◆図はスーパー地形1mメッシュ
現地縄張り彩色図

 
 
◆車は道路脇へ
 【アプローチ1】

この城へのアプローチは下調べができておらず、
よくわからなかった。
結局、直登する羽目になる。

車であるが、スクールバスの停留所横に置かせてもらう




目指す城山!
 
 【アプローチ2】

そこから山に向かい、山の中腹位まで延びる道に取りついた。



 

【アプローチ3】
どなたかいらっしゃれば、聞き取りも出来たが、
誰も居ないので、ボッチで山に突入。
いきなり、小竹の群衆のお出迎えだ。
これを掻き分けて山を登る。

後から聞くと、西の祠(縄張り図参照)に通じる道があるそうである。
確かに、山上からは下に道が延びていた。
来られる方は、ちょっと下調べをして来ていただきたい
 

 さて汗をかきながら、小竹を搔き分けると
写真の様な平場、切岸にでくわす。
この平場の端には、
家(小屋)が建っていた跡がある。
 

 
切岸は結構な段差なのだが、
微地形地形図でも分かるように、
この尾根は、かなり畑化が進んでいたようだ。

周辺に城郭遺構もなく、
先述の小屋の跡から、後世の畑の切岸と判断した。
 

 
さらにそこから登ると
1段目の切岸に出る。
この切岸は
城郭遺構と見て間違いなさそうだ。

本来であれば、この切岸手前に堀があって欲しいのだが、
現状ではそう呼べるものは観察できない。
 

 
さらに幾つかの切岸を乗り越えると
頂上(東峰)に祠が見える。
東の祠(縄張り図参照)としておこう。

山は西側にもピークがあるので(西峰)、
今度はそちらへ向かう。
2つのピークを城として取り入れる所は、
北の小家台城に似ている。
 

 
西峰の頂点には、
南側に張り出し部がある。

下段の曲輪にわざと張り出し、
そこに登城路を設けている。
ちょっと技巧的な虎口となっていた。

聞くところによると、
この虎口に続く道を下る道が、
最も城にアプローチしやすい道だそうだ。
ただし、麓のどこに通じているかは
管理人には分からない。
 


北側にも同様な張り出し構造がある。
張り出し部の下をわざと通らせて、
上位の曲輪へ導いている。
通路は竪堀で狭めている。

この両袖の張り出し部を盛った虎口は、
曲輪の両袖に配置されている所が、
北高岡西城とよく似ている。
 

 
西峰の西側端には
ご覧の様な虎口がある。

この虎口を下ると、堀切となる。
 


西の祠である。
裸でポつんと置いてある。
一人ぼっちである。
私と一緒だね。
 

 
この城の最西の堀切である。
堀中はかなり埋まってしまっている。

堀切の東は自然地形と思われる。
北側に腰曲輪の様な段差があるが、
これは作業道の跡とみた。
 


その堀切の城内側には
コの字の土塁で囲まれた空間がある。
周辺では見ない、ちょっと変った造りである。
考察 

つまらなそうな城だ・・・とファーストインプレッションを抱いたが、行って見るとなかなか考えさせられる城であった。

まず、2つのピークを結ぶ縄張り、という所では先述した小家台城を連想させる。
小家台は2つのピークを結び、その間は全て堀・帯曲輪としてラインで防御する「陣城」だ、というのが管理人の推測である。
しかし、ここ小井戸光福では、選地は同じものの、両ピークを堀では繋いでいない。
細い曲輪となっている。

それに対し、西のピークの曲輪南北の張り出し虎口は、北高岡西城と酷似している。
塁線を角形状にして出っ張らせ、それに沿ってルートを設定している。
北高岡西城は、茂木氏と益子氏の紛争(天矢場の戦い)に備えたものとして、※では茂木氏のものと考えられている。

※では、小井戸光福山を那須氏の築城と想定し、茂木領を攻めた時の城としている。
しかし、先の虎口の構造は、北高岡西城の茂木氏の物と似ている。
つまり、敵対する両氏の築城の特長があり、どちらなのかが正直よくわからない。

管理人としては、当地を那須方の(陣)城とするには、余りに茂木城と近すぎると考えた。
このため、一旦は茂木氏の城に軍配をあげておきたい。

※茂木保の報告



小家台西城sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

でかい陣城・・・・・・2026/02/28
こちらは2月1日の茂木町の『よみがえる茂木保の中世』の講演時に報告された城である。
微地形表現図では小家台城の西、800mの山に、城の陰影が映し出されている。
城の呼称は上記に従って、小家台西城とさせていただく。

◆図はQ地図 CS/赤色立体図1mメッシュ

結論から先に言うと、この城は小家台城と同時に、なにか大きな戦闘を迎え撃つために造られたと考える。
理由は小家台城と同じく、曲輪の加工も甘く、おそらく人が安定的に居住することを意識していない。
敵が攻めて来る方向、回り込まれる方向に対し、堀を全面に配し、「ライン」で立ち向かおうとしている。
大きな戦に備えた『陣城』であると、縄張りから感じることができる。

 

 
◆図は国土地理院
 【アプローチ1】

この城へは、小家台城の八幡宮の駐車場から、
峰続きに歩いていける。(左図)
このルートで訪城した方もいる。

ただ管理人は、この八幡宮の駐車場に車を置くことに
いつも不安を感じている。
理由は、ここまでの道が狭く、
脱輪しそうな箇所があるからである。
しかも八幡宮に車をとめると、
帰路にアップダウンのある道を、
約800mも再び戻らなくてはいけない。

きっと帰りは疲れてるから、これはキツイな~、
と、60代も半ばになると思ってしまうのである。


◆図は国土地理院
 
 【アプローチ2】
そこで、管理人は小家台西城への直登を試みた。
西城の尾根下に林道があり、
ここからのアプローチだ。
これだと、400mほどで主郭に到達できる。
しかも帰り道は全部 下り だ!


ということで、車は左図の駐車場所に決定。
 

 【アプローチ3】
うまい事に、
ここには丁度良い広さの
コンクリート敷きの駐車場所がある。

では、早速、ここから登山開始だ。
 


【アプローチ4】
もちろん、道など期待してなかった。
最初から直登になることも予想していた。
でも、いきなり小竹の群生のお出迎えを受ける。

身の丈以上ある竹で、
これを搔い潜りながら登る。

大汗をかいてしまった。
◆図はYAMAP 
 


 標高150m付近になり、
小ピークに出る。
小竹は少し背を低めた。

その中に、大きな土塁が姿を現す。

 

 最初は自然の物か?とも思ったが
良く見ると、やはり人造物の様だ。
赤色図でもそれは明らか。


小家台西城の付属施設であろう。
谷から上がってくる敵を、
迎え撃つものだろう。

 
 
さらに足をすすめると、
一段の切岸に出会う。
(写真右手)
赤色立体図通りだ。

ただし酷い藪。
写真を撮ったが、ほとんど分からない。
 

 
よくみると、切岸端面は土塁だ。
つまり、空堀状になっている。

これで、
城であることは間違いない。
 

 
ここからは、この堀?に沿って、
主郭方面にむかう。

写真は、その堀、帯曲輪状の
曲輪内部。

しかし、ひどい藪だ。
 

 
進路を東に向け
さらに進むと、また堀が出てきた。
主郭北端の堀切である。
 

 主郭側に上がってみると、
縁は土塁となっている。

 

 
高さは、50cmにも満たない。
でも、土塁で良いと思う。
 

 
その空堀の最東側。
藪が少し薄く成っているので、
少しマトモな写真となった。
 

 
場面転じて、主郭の最西のコーナー部。
ここも若干藪が薄いため、
写真がマトモになった。
若干堀状になっている。

 あまり役に絶たない写真はここまで!


なにしろ、今日は風が強かった。
山から降りた私は、完全花粉症になった。
今シーズン、初症である。
帰りの車の運転が大変だった。
涙が止まらない、目が痒い。
やはり、八幡宮の駐車場に置かなくて良かった。
脱輪でもしたら、帰れなくなってしまっただろう。
 
◆調査を終え、ヘロヘロの私。
 考察
 
繰り返しになるが、ここは、小家台城の南峰と造りが同じである。
堀(帯曲輪)がメインで、それ以外は余り手をかけていない。
よって、小家台城と小家台西城は、同じ設計者によって作られた可能性が高い。
また、大きな軍事的緊張に備え、まず堀のみを入念に作った感じがする。
その規模は両城を合わせると、かなりの土木量となる。

よって、筆者は
この2つの城は、とある時期この周辺で起きた、または起きようとしていた大きな軍事的緊張に備えた陣城と考える。

非常に長い防御ラインと広い陣地をもった、巨大陣城だ。

しかし、管見の限り、明確にこの地で戦いがあったことは、史料上見当たらない。

歴史って不思議だ。
でも、城はリアルワールドに残っているのだ。

黄色➡が敵の侵入経路として両城は想定されている様に見える
◆図はQ地図 CS赤色立体図



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大変危険な城です・・・2026/02/23
こちらも茨木大学の『茂木保の中世城館』の調査により
報告された城である。
名称もそのまま使わせていただく。

(この調査より早く、別の図面を見たような気もするが・・・思い出せない)




この城は、馬門の滝に続く逆川の右岸、断崖絶壁の細い丘陵上に存在する。(黄色い囲み
下図の様に、この地域は微地形地形図でも5mメッシュ=傾斜量図しかない。

この傾斜量図の情報だけで ”城” と判断し、調査された方に敬意を表したい。
まったく、良く見つけたものだ。

 
◆図は国土地理院 Q地図赤色立体図

 

 【アプローチ】

車は逆川の牛越橋の袂のスペースに置かせてもらった。
(上の地図の駐車場所

※ちなみに、この橋には名前が 『うしごえばしばし』 と銘板されている。
漢字では『牛越橋』になっているんだが、何故?誤記?
 

 【アプローチ】
先に書いておくが、この城は
めちゃくちゃ行きづらい。


写真奥の緑色の濃い山が城跡と思われる。
ココに行く為に
牛越の集落から、東に移動して取りつこうとした。


ところが、眼前に立ちはだかるのは、
写真の様な身の丈以上の、蔓系の藪なのである。
とても入れるものではない。

畑であった耕作地が放棄され、
長年放置された結果の藪である。
とてもじゃないが、手に負えない。

※地理院地図に書いてある東西の道は全く無い
 

 【アプローチ】
仕方なく、写真のお宅南側の墓地を通させていただいた。

いちおう、山に向かって道が伸びている。
城跡迄、まだ随分距離があるが、
山懐際から近づけるかもしれない・・・・
 

 【アプローチ】

・・・そんな期待は見事に裏切られた。

道の先はイノシシの罠。
道はココで消えている。
 

 【アプローチ】
こうなることは覚悟していたが、
こうなったら仕方ない。。
とにかく山に登って、
上方から城を目指すことにした

道など無い。
直登である。
もう、ヤケクソだ。
◆図はYAMAP
 

 
【アプローチ】
大汗掻いたら、広い山の稜線に着いた。
あら?なんだかこの山も、
段々が微妙にある。
でも、とりあえず一旦無視しよう。

ココからは城のある細尾根に向かって
山を下る。
もう汗だくだ。
もっと良いアプローチの仕方が
あるかもしれない。

行く方は、良くご検討ください。

◆図はYAMAP
 

 
目的の尾根に下ると、
一本目の堀切に出た。
最西の堀切となる。
東側の壁が高い。

画面左手は崖である。
ほぼ90度。
竪堀になってるのは、画面右手のみ。
◆図はYAMAP
 

その竪堀下から撮影。
かなり埋もれていると視た。
 

 その東。
次の堀切か?
ここも埋もれているようだ。
◆図はYAMAP」
 

 主郭の堀切。

写真手前にも薄い堀があって、
2重堀となっている。

非常にシッカリした堀切で、
ココが城郭であることを決定づけている。
◆図はYAMAP
 

2重堀を主郭側から見る。
結構迫力がある。

写真だと、なんでこんなに伝わらないんだろな。
 

 主郭から東下にも、段々の切岸が続く。

中途半端感があるが、
シッカリと切岸である。

縄張り図ではハッキリ描いた。
◆図はYAMAP
 

 先ほども申し上げたが、
城の北側は、ほぼ崖である。
半端ない所がいくつもある。
落ちたら、たぶん死ぬ。

見学の際は
本当に気をつけて
 

 東の曲輪の最先端である。

細い削れ残りの両袖が急崖である。

歩いていけなくもないが、
こんなところを城域にするのは、
アホ!!と言われてしまう。

命あっての物種。
見るだけで、遠慮しておいた。
◆図はYAMAP
 

 激藪で写真がこれ1点。


山麓部の切岸と土塁である。
土塁でシッカリ西側に虎口がある。
ここから、牛越の集落方向に
繋がっていたのだろう。

なにしろ凄い藪で歩測が合わず、
曲輪どりが難しい。
ちょっと曲輪の形に自信が無い。
◆図はYAMAP
 

再度言うが、

牛越の集落から、
この城へ近づくのは辞めた方が良い

・・・というか不能である。


藪が酷すぎて、進行できないと思う。

結局、私の場合、
帰りは行きに使った道を戻った。

つまりは、
行きの降り道を全て登ることになった。
これには参った。

麓に着いたら、足が攣った。

(◆図はYAMAP  筆者の行き帰りのログである)
考察 
 編集中



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2日かかった割には貧祖な内容かも・・・2026/02/01&04
こちらも茨木大学の※『茂木保の中世城館』の調査により
発見された城である。
名称もそのまま使わせていただく



 
◆Q地図 赤色立体図5mメッシュより
この城の作図には2日間掛かっている。
しかし、内容が少ないので、
2日分を時系列を無視して、
まとめて報告する。

まず、
微地形図が公開されているのは、
この地域だと、赤色5mメッシュのみだ。
地形図だと、傾斜量図。

これだけを見て、
ココが城であると分かるだろうか?
判断された方に脱帽だ。

城はA(大手)-E(主郭)ーF(搦め手)
と続いている。
 

【アプローチ】
この城には駐車スペースが無い。

管理人は申しわけないが、
近くの農道の片隅に置かせて貰った。
ちなみにこの車はレンタカー。
本人の物ではありません。
 

【アプローチ】
ここからツインリンク茂木の中央を
ぶち抜く県道に向かい、
少し県道を歩き、
写真の畑に向かう農道を上がる。
 

【アプローチ】
農道が右に曲がっているところで
山に左に入る。
 


すると、平坦地に
堀の様な薄い跡がある。
辿ると途中で消えてしまう。

管理人は堀ではないな・・・と感じた。
道、耕作の跡の様だ。
 

さて、ココからは南に尾根を直登なのであるが、
運が良ければ、尾根左手に
写真の様な境界を示す赤ポールの道が
あるはずである。
見つけられたら、これを登る。
 


すると、まず最初に
尾根を断ち切る大手の堀切にぶち当たる。
少し道で崩されているが、往時は土橋であろう。
 


大手堀は、
東側は竪堀+横堀、
西側は竪堀になっている、
と言って良い。

写真は東側の横堀部。

報告書では、両側竪堀になっている。
これは誤りである。
 

 
非常に大きな堀で
この城の最大の見どころと言って良い。
 

 
西側は写真の様な大きな竪堀。
実は、この竪堀の切岸は、
反対側(西)の尾根の切岸と連動している。
 


 図のように、切岸が
北西に向かう谷を横断しているのだ!
 

 
さて、2重堀から山頂に向かうが、
途中、小さな堀と、
土塁を伴った小郭がある。
さらに進む・・・
 

 
ほぼ主郭までやってきた。
この写真は、まだ切岸が
ハッキリしている部分だが・・・
 

 
・・・主郭を南西に進むと
途端に切岸が怪しくなる。

ここから北西に派生する支尾根には、
曲輪がいくつか段々で残る。
 

ここまでで
 しばし、途中休憩
 

 
今度は山頂主郭から、
搦め手に向かう。

ここの堀切(写真なし)を越えると
虎口がある。

写真では分かりづらいが、
切岸が開口している。
 

 
これは、搦め手の
最後の堀切である。
堀部分はかなり埋まっている。

※報告書では、
この堀切を見落としている。
 

最後に、この山は、本当にイノシシが多いらしい。
搦め手口には、大きなイノシシ罠がある。
他にも、イノシシの生態を探る監視カメラが設置されている。
宇都宮大学さん、私が写ってたらゴメンね。
 考察

結局、遺構があるのは、主郭回りとA-E-Fを基軸とした主尾根周辺のみ。
主郭以外の支尾根は全て降りてみたが、遺構は無かった。

当初、お仲間と、この城は街道監視の城では?
街道はどこを通っていたんだ?
なにかの陣城か?
この辺りでなにか戦いは無かったのか??
いろいろ考えたのだが、結局上手く当てはまらない。

ここには茂木保の林郷という小地区があった。
最終的には、この地区を治める在地の城でなのであろう、という 『つまらない結論』 が着地点となった。


ただ、谷を抑える大手の堀が妙に一点豪華主義なのが、ちょっと気になる。
縄張り図では”耕作地跡?”としたゆるゆるの台地続きだから、この尾根を強化する必要があった・・
・・・と言えば、そうだが、他の尾根と比べ執拗過ぎる。
このゆるゆるの台地が、城下町だったのだろうか?

どこかの方は、「ここだけ佐竹が改修したんだ!」とか言いそうだが、???。

謎の多い城なのであった。



山内雷神城sk  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

割と見やすいです 2026/01/29
こちらも茨木大学の『茂木保の中世城館』の調査により
発見された城である。
名称もそのまま使わせていただいた。

 


【アプローチ】
まず、言いたいのはNAVIで
この道を紹介されたら、
別の行き方にしよう。
川又から山内地区に抜ける道だ。
なにしろ道が狭く、すれ違う事が出来ません。

◆図は国土地理院地形図
 

【アプローチ】
主郭までの道が分からないと思うので、
ちょっと詳しく書く事にした。

車は、
城の東麓にある県道のゴミステーション
にとめさせていただく。
Google Map等で場所は探って欲しい。
 

【アプローチ】
目の前の道を上がり、写真路地を右に入る
 

【アプローチ】
あとは、この道をまっすぐ進む。
この道が、頂上の雷神様迄つづくのだ。

写真のお宅の方に道を教えていただいた。
入山の許可を得て、
聞き取りも行ったが、
この山が城であったとは、聞いたことが無いという。

いつものパターンであった。
  

 【アプローチ】
道を進み、
耕作地になったら、道は左の山へ向かう。
道なりに進み山に突入。
 

 【アプローチ】
山に入っても、道は綺麗だ。9
頂上の雷神様は、いまでも大切にされているんだな。


 
 峰まで上がると、
切岸がくっきり見える。

なんか写真じゃ伝わらないけど。。。
◆図はYAMAP
 

 
主郭入り口。
ちょっと広げられてるのかな?
◆図はYAMAP
 

 
主郭には雷神様?の祠が一基。
写真には無いが、
祠左手は、
土塁状に高くなっている。

そのまわりに廃屋の残骸がある。
おそらく社屋があったようだ。

この土塁状の高まりも、
社屋の為だったかもしれない。
◆図はYAMAP
 

 主郭は3方を切岸が巡る。
北側は断崖である。
切岸は3m程はあろうか。

写真は二の郭から見た
主郭東側の切岸。
◆図はYAMAP
 

 この二の郭には虎口がある。
東側である。
さらに下段の帯曲輪に続く。
◆図はYAMAP
 

 二の郭下に三の郭がある。

三の郭を西の腰曲輪から見る。
※報告書ではココを横堀にしている。
可能性はあるかもしれないが、
現状では堀には見えない。

三の郭は西の切岸がダレている。
おそらくココにも
雷神関係の建造物があって、
地ならしされた可能性があるとみた。
◆図はYAMAP
 

 三の郭から南には
尾根続きに道痕が残る。
今は藪だが、結構山の上を
人が歩いていたようだ。

しかし酷い写真だ。
◆図はYAMAP
 

 三の郭の下から伸びていく竪堀。

良く見ると、三の郭の入り口は
横矢が掛かっていたように見える。
写真の左手になるが、
上手く伝えられない。
◆図はYAMAP
 

 現在、この竪堀が
麓からの参道になっている。
さっき登ってきた道だ
◆図はYAMAP
 【考察】

この城も茨城大学の報告書『栃木保の中世城館』の調査の一環で見つかった城である。

しかし縄張り図は、各堀が豪勢に盛られていると思われる。
全てが横堀、堀切、竪堀の様に描かれているが、
実際はかなり埋もれているか、もともと堀では無かったようで、そこまでモリモリではない。

縄張り図は、あくまで現状図を書くべきだと私は思っている。
その図を頼りに実際に現地に行った人が、盛り盛りの図面だと、自分がどこにいるか分からなくなってしまうと思うのである。
想像力を働かせるのも良いが、モリモリにするなら、別図で想像図、想定図とするべきだろう。

茂木保の山内郷は、佐竹、那須の境界でもあるので、これらの勢力に備えた茂木氏の城と思われる。
茂木氏は後に佐竹につくことから、佐竹の配下前の城であろうか。



後郷城(うらごう)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

見事な眺望の城 2026/01/21


 

【アプローチ】
この城へは『鷲の巣キャンプ場』から取りつくのが楽である。
車をとめるには、キャンプ場のオーナーにお断りしよう。
平日はキャンプ場下、山の中腹の民家にいらっしゃるようだ。
車の駐車と、聞き取りを行わせていただいた。

ちなみに、鷲の巣キャンプ場からの眺めは絶景である。
断崖から那珂川を望むと身震いがするほどだ。
なるほど、この絶景を狙って、後郷城も築かれたんだな。

 

さて、この城は”後郷”と書いて、”うらごう”と読む。
こちらも、茨木大学の『茂木保の中世城館』の調査により
発見された城である。

この報告書では、「後郷砦」となっているが、
本サイトでは館、砦、狼煙台、城の区分が難しいからという理由で
いつもの通り「後郷」とさせて頂こう。

許可を得たので、
鷲の巣キャンプ場の最頂点に車を置かせていただき、
早速調査開始だ。
 


左写真の奥からハイキングコースが伸びている。
この道から城跡へとアプローチする。

道は綺麗で、快適である。
 

 
ハイキング道を途中から外れ、
後郷城の西尾根に取りつく。

この尾根のとば口に、
堀(堀切?)が現れる。
城の物では無い?可能性もあるが、
道痕でも無さそう。
の報告書を尊重して
いちおう、堀としてした。

◆図はYAMAP
 

 主郭に着いた
ハッキリ言って、遺構は超薄い。
これは、主郭東側の堀切。
ご覧の様に
かなり埋まっている。
1mも無い。

ちなみにキャンプ場のオーナーは、
この山を「いしはら山」と呼ぶと言っていた。
報告書では「義明山」となっている。
なんでだろ?

◆図はYAMAP
 

 
主郭東の堀を上から。
斜面が竪堀になっていたかは微妙だ。

◆図はYAMAP
 

 主郭は、ご覧の様な雑木林。
意外に歩きやすい。

左の写真は、何を撮ったのか
忘れてしまった。

◆図はYAMAP
 

 主郭の東は、自然地形。
ゆるい平場が続く。
基本、何もない。

写真は、
「ここまで行きましたよ」
の、証拠写真。

◆図はYAMAP
 

 
主郭北側尾根には、
傾斜した曲輪群がいくつか。

よくみると、
段々で上がれるようになっている。
主郭に向かうまでの、通路痕のようだ。
しかし、最後まで辿れない。
では竪堀の中を進む、
みたいな表現になっているが、
そんな感じでもない。

◆図はYAMAP
 
◆鎌倉山、那須領方面を望む
城の調査はここまで。
なんか物足りない。
ま、この景色が埋め合わせをしてくれた。

冒頭でも話したが、ここは茂木領の境界のようである。

物見としてこのような眺望の効く場所を
選んだのだろう。



小家台城 (こやんだい・・と読むらしい)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

浄書完了 2026/01/09



 

浄書だけで丸2日。
色付けで、丸3日かかった。



   さて、この城の守る方向は割とハッキリしている。

まずは、北方向。
八幡宮から北に伸びる尾根には2つ堀があるが、
その東隣の尾根は、北方向の防御が甘い。
明らかに峰続きとなってしまう八幡宮北の尾根にのみ堀がある。

次に西方向。
北峰―南峰を連結する竪堀がある。
これは西からの敵を意識しており、図では「西の障壁」とした。

次に南方向。
南峰の東・西のピーク山腹に横たわる堀がある。
これを「南の障壁」とした。
おそらく、2重の堀だったのではなかろうか?
これは、敵が南から来ることを示す。

最後に東方向。
これについては、ハッキリ言って甘い。
解放状態に近い。
東に続く谷、尾根への警戒は非常に甘い。
 
◆図はQ地図に矢印を管理人が加筆
私は自称「縄張り屋」なので、歴史的な背景は抜きに、城の縄張りからこの城の意図を探ってみたい。
まず、左図をご覧いただきたい。

管理人は上段の結果も踏まえ、
『この城の敵は、西方向からやってくることを想定している』
とみた。

東に警戒を全くしていない事が、まず大きな理由である。
敵の大軍は、特別な理由が無ければ、最初は谷伝いにやってくる。
(左図黄色矢印)
城に近づいた時点で、部隊となって分散するだろう。
小家台城の北の峰続きの堀切や、南の2重堀?を配しているのは、
西から攻めて来た敵の部隊の回り込みを警戒しているとみた。

あわせて、小家台城の西にある「小家台西城」も同じ敵を警戒しているとみた。
 考察

では、西から攻めて来る敵とは誰であろう。

この城の北には那珂川が流れている。
一番怪しいのは、この流れに沿ってやってくる那須氏である。
城が、東を意識していないという事は、東が佐竹領の方向であると考えると、この城は佐竹側の城と言うことになるのではなかろうか。
茂木氏は、戦国時代、佐竹に従った。
そうすると、佐竹側についてからの茂木氏が築いたという推理が一番妥当なのではなかろうか。


栃木のバイブル『栃木県の中世城館跡』では、築城者に源義家伝説を取り入れているが、全くあてにならない。



第3回 調査完了 2025/12/29
【本日の縄張り図】

◆現地縄張り図 3日目
 

【アプローチ】
お正月も
近くなり、きっと初詣の準備とかで
この神社も慌ただしくなるに違いないと踏んでいた。

しかし、駐車場には誰もいないし、がらーんとしてる。
「これから来るかもしれないな・・・」
そう思い、今回はちょっと距離があるが、
ここから山の上まで歩くことにした。
 

 
今日の調査は、南峰の堀切からだ。
微地形表現図には、綺麗に堀切が出ている。

行って見ると、確かに堀切だ。
藪で分からないが、結構な堀切である。
ただ、やたら短い。
西面のみ高い土塁が築かれている。
南峰には、東と西にピークがあるが、
土塁の存在から、
西の山が主郭に当たると考えられる。
 

この堀切の土塁下には、虎口がある。
藪で分からないが、
綺麗な坂虎口となっていて、
東のピークからの入り口となっている。


 

 南峰の南面には、2段の腰曲輪が配備されている。
その中には、左写真のように、
土塁を伴うものがある。
 

 
写真ではわかり辛いが、
シッカリ土塁があるので、
この腰曲輪は、横堀だった可能性が高い。
南峰の南面は、たぶん2重の横堀が
配備されていた可能性がある。

しっかし、それにしても凄い藪だ。
す、進めん。。。。
 

 
図面を描き上げ、山を降りた。

画面左が八幡宮のある北峰。
画面右が2重堀の南峰。

写真を見ていただくと分かるが、
北峰は綺麗に里山整備されているが、
南峰は荒れ放題なのである。
だから、藪が酷い。
 

お正月準備で神社に車が集まるだろうと思っていたが、
結局人っ子一人来なかった。
取り越し苦労であるが、まあ、とりあえず終わって良かった。

今年の城おさめになった。

来年も頑張ろう。



第2回 まだまだ未調査部分の多い城 2025/12/23
【本日の縄張り図】

◆現地縄張り図 2日目
 

◆図は国土地理院


【アプローチ】
今日は思い切って、八幡宮に繋がる細い林道を少し奥まで入ってみた。
今日は谷を降りる調査が入る可能性があるため、
八幡宮に車をとめると非効率と考え、
地図の谷あいの駐車スペース
に置いた。
  今日のメイン調査は、
八幡宮のある北峰()とその対岸の南峰()の連結部()だ。
経験値だが、谷筋の調査は時間が掛かる。
なにしろ、全部斜面だ。
平面図にした時と、実測値が絶対合わない。
それをどう誤魔化していくかが、腕の見せどころなのである。
  今日も晴天である。
明日のクリスマスイブから天気が悪くなるということで、
女房に許可を取って、今日の訪城とした
   さて、調査を開始。
まず、八幡宮から下方に向かう切岸を描く。
あとで分かるのだが、右手は竪堀である。
今はかなり埋もれてしまっている。

   竪堀を下から上に向かって。
谷に近いところでは、竪堀の堀が現在でも視認できる
   この竪堀には幾つかの腰曲輪が存在する。
谷に配置した兵が駐屯する場所であろう
  谷の最下部には、思った通り「虎口」があった。
虎口から先は、南の峰の山腹を巻く道が続いている。

  谷の虎口から南峰の山頂に向かった。
山頂は、全く加工していない。
ダランとした小ピークだ。
 

  頂上は何もやっていないのに、
その下方、南西の尾根には遺構がある。
おそらく、堀の跡であろうが、今は腰曲輪にしか見えない。
この腰曲輪は、赤色立体を見ると、
南峰の南側斜面をグルリと一周するようである。
  本日の終了地点にマーキングをしておいた。
この先、東に15mほど行くと、大堀切がある。
やはり終わらなかった。
この城は、南峰は山腹にしか明確な遺構が無い。
という所では、非常に測定誤差が生まれる。
オマケに谷との混合だ。
これは手強い縄張りである。
あと、最低でも1日は丸々掛かるだろう。

この城を「茂木保の城館調査」や、他のサイトでは
遺構の少ない大したことない城」 とか、
源義家が、奥州に向かう時に築いた城とかという、どうしようもない説を紹介している

ところがドッコイ!
この城は、間違いなく巨大城郭である。
ただし、戦争を意識した城であることは間違いない。
曲輪はほぼ未整形、堀などの防御施設のみの城だからである。
まだ全部見終わってないが、この城は西と南からの攻撃に備えるが、東側は完全に無防備だ。
この事実から、「城の向き」という縄張り視点から見ると、考えられる築城者は、佐竹氏だ。
佐竹氏であれば、佐竹の本拠の方向=東側が解放されていても、おかしくないからだ。
ま、いずれにしても調査を続けよう。



第1回 まだまだ未調査部分の多い城 2025/12/16
【本日の縄張り調査図】

◆現地縄張り図 1日目
 



【アプローチ】
車は、城跡(八幡宮)麓の駐車場にとめさせていただく。
トンネルをでたら、すぐだ
 

【アプローチ】
頂上の八幡宮までは、地図上、舗装路が通っている。
どんな道路状況か分からないので、
今回は、麓の駐車場から歩くことにした。
 

【アプローチ】
歩いて分かったのだが、シッカリしたコンクリートの舗装道が続く。
軽自動車なら問題ないだろうが、
頂上に近くなると、脱輪しやすそうな場所もある。
落ち葉に埋もれている場所もあるので、
車は滑るかもしれない。
 

 【アプローチ】
左に行くと神社前の駐車場。
右は、神社をぐるりと回る道になる
 

八幡宮神社である。
神社前は数台とめられる
 

 八幡宮である。
奥の院もシッカリ残っている。
 

主郭部分?=神社前で休憩。
神社でかなり改変されているようで、
ダラーンとしてしまっている。

従来のサイトだと、この城は遺構が少なく

ホント城なの?

という感じで紹介されている。
 

しかし、神社から北側に延びる尾根には、城の遺構がある。
堀切が1本。
そして、その先の尾根上に、
片側のみ堀り残した堀がある。
通路幅を狭めたのだろう。(写真)
◆図はYAMAP
 

ここまで来て、お昼になった。
落ち葉で昼寝。
ホント、気持ちいい。
 
◆図はQ地図から
さて、管理人がなんでこの城に注目しているかというと
周辺の状況からだ。
微地形表現図を見てみよう。

が今回調査した八幡宮のある城。
しかし、左図の様に谷を挟んでの城の陰影がある。

しかも、は谷を挟んで連結しているように見える

これは、今後、是非確かめたい。
現在、を城としている見解は、今のところない。

あと、図の左上に未報告の城の陰もある!

 

八幡宮下のの連結部分の写真。
見下ろしている写真である。

谷に向かって、切岸が降りていく。
それに伴って、おそらく竪堀痕?腰曲輪?が沿っているように見える。



北高岡東城sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

古手の城?
【彩色縄張り図】


 

【アプローチ】
車は高岡北城と同じ場所にとめた。
北高岡東城のそばに、駐車場所が見つからなかったのである。


正面の山が北高岡東城で、駐車場所からは少し歩くことになる。。
 

【アプローチ】
まずは、入山許可と、聞き取りだ。
城の直下、写真の最右手の大きなお宅に訪問だ。

切り干し大根を作ってらっしゃるご夫婦とお話しした。

①城としての認識はない。云われもない。
②山へはハイキングコースが整備され、
頂上は、アスレチックのような施設になっている。

こんなところだ。
 

 【アプローチ】
ご婦人が、ハイキングコース入り口まで案内してくれた。
白い看板が見えてくる。
「この里山は、栃木の元気な森づくり県民税事業で整備されました 茂木町」

と書いてある
 

看板からは綺麗な登山道が伸びていた。
ステップに、ロープまで張られている。
山は楽勝で登れる。
 

 
山頂である。
すっかり整備されていて、下草など無い。
これは見やすそうだ。
◆図はYAMAP
 

山頂から下を見下ろす。
ご覧の通り、山頂近辺にも藪が無い。

◆図はYAMAP
 

見学していて思ったが、この城は結構古手の城と感じた。
切岸だけの城なのである。
左写真は、主郭東側の最下段の曲輪。
写真手前は道状になっていて、奥では曲輪になっている。
◆図はYAMAP
 

 主郭北側の曲輪。
茨城城郭研究会の「茂木保の調査」では、
ここを2重の堀切にしている。
しかし、管理人は、現状図では堀切に描けないと判断した。
発掘に委ねたい。
◆図はYAMAP
 

 とにかく、全体で堀は確認されず、切岸だけの城に見える
◆図はYAMAP
  地図には表れていないが、頂上付近には谷が入り込んでいる。
谷中から、切岸を望む。

◆図はYAMAP

現状からは、はっきり堀または堀切と断定できる遺構は無い。
堀切だとしたら、堀の両側斜面に竪堀の痕跡があると思うが、それもない。
プラス土塁もない。
切岸のみの城に私は見えてしまう。

結構、古手の城なのではなかろうか?

 (追記)
実はこの城(赤線)の南側に、送電線の建っている山(黄色)がある。
赤色立体図を見ると、なんか城っぽい。

試しに登ってみた。

東の尾根に続く陰影は、堀切に見えなくもないが、非常に薄い。
曲輪も最下部の方はあるようだが、頂上部は送電線に潰されているようだ。
結論としては城っぽいんだけど、正式調査はしていない。

ちなみに送電線に上がる道は、この山の南東側のくびれた谷にある。




高岡北城sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

陣城のような・・・
【彩色縄張り図】

 

【アプローチ】
車は、城跡近くの道路脇にとめさせていただく。
 

 【アプローチ】
城へは、この青い小屋の後ろ側から登る。
ちょうど、石碑のある当たりから、尾根に取りつくと良い
 

 最初は綺麗な山道
 

 暫くすると、藪が酷くなる
 
堀切
主郭は一面の藪で、小竹に覆われている。
これは、最西部の2重堀。
藪で、良く分からないだろう。
◆図はYAMAP
 
堀切
主郭西の堀を南から
◆図はYAMAP
 

 主郭西の堀を北から
やっぱり、藪でよくわからない
◆図はYAMAP
 

2重堀を越えた南側に祠が残る。
綺麗に草刈がココだけ施されているので、
いまでも信仰している人がいるんだろう
 
2重堀
 
主郭北側は横堀が巡る。
おそらく2重堀になっているが、かなり埋もれている
◆図はYAMAP

”茂木保の中世城館”では、この周辺地で起こった合戦の陣城としている。
たしかにぱっと見た目、陣城っぽい。

この城は、北高岡西城のすぐ南にある。
ただ、西城と違って、技巧さは無い。
時代差?なのであろうか?
高岡城の支城であることは間違いないだろう。

北高岡西城
sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

横矢と虎口のテクニカルな城
【彩色縄張り図】


 

 【アプローチ】
車は、城跡近くの道路脇スペースにとめさせていただく。

たまたま通りかかった地元の男性に聞いたのだが、

①山への道は無いらしい。
②ココを城だとは思っていない
という事だった。

仕方なく、この駐車場所から管理人は直登した。
 
南虎口からの腰曲輪
きつめの斜面を登ると、
南の虎口下の曲輪に到着。
◆図はYAMAP
 

神社の土壇
山頂付近は不整形で平坦ではない。
南にやや傾斜している。
山頂部には四角い土壇があり、周囲には浅い溝がある。
矢倉台とも思えるが、”茂木保の中世城館”報告書では、
神社?とされている。
◆図はYAMAP
 

横矢
主郭の縁辺部を巡ってみると、「横矢」が掛けられている。
合計4か所。
非常にテクニカルだ。
築城年代も、戦国の匂いがしてくる
◆図はYAMAP
 
南虎口
南側の虎口である。
南側に続く階段状の曲輪にも、似たような虎口が施されているようだ。

結局主郭には、南北に虎口がある。

”茂木保の城館調査”報告書では、この虎口を竪堀としている。
ここに竪堀は要らないだろう。
誤認と思われる。

◆図はYAMAP

総じてこの城は、横矢、虎口など、遺構は技巧的である。
北高岡東城に比べると、時代の下った城と考えられる。

ここも茨城城郭研究会の”茂木保の城館調査”によって新らたに発見された城跡である。
それは素晴らしい事なのだが、
縄張り図では残念なことに、横矢部を見落としていたり、虎口を竪堀とまちがえている。

この城の意識は「西方向」である。
さきほどの横矢の存在や、主郭西側の腰曲輪も、おそらく全面堀の可能性もある。
主郭南北の虎口も、すべて西方向から見えなくしている。
主郭の南に2段続く曲輪も、虎口が西から見えい。

敵の脅威を強烈に、西に感じている城なのであった。


神井城(かのい)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

小ぶりなかわいい城
【縄張り彩色図】


 

【アプローチ】
車は、城跡近くのお墓横にとめさせていただく。
ちなみに「神井」と書いて「かのい」と読む。
 

【アプローチ】
まずは、入山許可と、聞き取りだ。
城の直下の大きなお宅に訪問した。

私が犬に激しく吠えられたので、
心配なさって、ご婦人が出てきた。
丁度良いので、事情を説明させて頂いた。

「上の山が城跡だというので調査させてください」

ご婦人が言うには
①住所は神井。小字は知らない
②背後の山が、城跡だとは知らなかった。
 関連する事柄も聞いたことが無い。
③この山に、特別な呼称は無い。

まあ、いつものことだが、家の中を通させていただき、
背後の谷の畑から、山に突入させて頂いた。
 

山に上がると、いきなり堀切が出てきた。
最西の堀切だ。
写真は、主郭側の切岸を撮っている。
◆図はYAMAP
 

主郭内部に入ると、一段のスロープ状の曲輪がある。
矢倉でも建っていたのであろうか?
写真は、その切岸。
◆図はYAMAP
 

主郭東側の堀切を主郭側上方から望む。
例によって、わかりづらい。
◆図はYAMAP
 

主郭東の堀切を、北方向一段下の曲輪から撮影。
◆図はYAMAP
 

主郭の東側、二ノ郭の東の堀切を内部から。
ここもシッカリした堀切である。
◆図はYAMAP
 

二の郭からさらに山を東に進むと、もう一本明確な堀切がある
◆図はYAMAP
 


さらに進むと、非常に遺構が薄いのだが、
段が残っている。
堀切跡だろうか?
 ◆図はYAMAP

本城は、茨城城郭研究会の踏査によって新たに見つかった新城である。
しかしながら ”茂木保の中世城館”の報告では、
現地とは似ても似つかない全く別の城の縄張り図が掲載されている。(下図)
主郭のような土塁囲みの四角い曲輪、土橋と渡った先の土塁、主郭北の横堀など、現地には皆無である。
なにかの間違いだろう。
訂正願いたい。

◆茨木大学  茂木保現況調査報告書 
 特論1 茂木保の中世城館
 ㉒神井城より



飯村山城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

単郭の城
【彩色縄張り図】

飯村城、飯村要害城、飯村根古屋城と名前を使ってしまっているので、
今回の城は「飯村」と表現させていただいている。
飯村要害城と同じく茨城城郭研究会が新たに茂木保の調査一環で発見した城である。
現地調査は、おそらく筆者が初めてなのだろう。



 私のような活動をされている方は既にお気づきだろうが、0.5~1mメッシュのCS立体図、赤色立体図でも限界がある。
やはり、細かな土の造作は、現地調査をしなければ分からない
虎口や微妙な土塁、堀切などが、微地形表現図には表れていないからである。

今回の飯村山城にも、そのような箇所がたくさんあった。
微地形表現図は城の大まかな縄張りや未知の城を探すのには非常に有益であるが、
城の細かな機能を表すには、現地調査からの縄張り図の方が、一枚上手である。

 

ご不在のご様子
【アプローチ】
車は、飯村根古屋城と同じく道路沿いのスペースに置かせてもらった。

これまた同じく麓のお宅に、お断りしようと訪ねたが、不在。
車はあるのだが、ここでは生活をされていない??のかな??
とにかく申しわけないが
飯村根古屋城から、飯村山城を目指す



 

【アプローチ】
今回の城の場所は、飯村根古屋城の背後の山。
距離にして約900m
比高150mの山頂まで、だらだら歩くことになる。
 

【アプローチ】
飯村根古屋城から、背後の尾根をダラダラと登る。
道は根古屋城近辺には、なんとなくあるのだが、途中で消失。。
正直、道が無いと言って良い。
それなりの藪なので、行く方は覚悟願いたい。

地点まで来ると、東面が杉林になる関係か、
踏み跡程度の道が出てくる。
まあ、基本、当てにならないので、GPSと睨めっこだ。

この山は、尾根の分岐がいくつもある山なので、
帰りの際は迷わないようにして欲しい。
 

城跡近くになった。
今回も写真は期待しないで欲しい。


主郭北手前に堀切?があったようだ。
少し平場となってしまっているが、
雰囲気だけは残っている。
◆図はYAMAP

 

そこからちょっと先の主郭の壁である。
高さ2m~3mのシッカリした壁が、ぐるっと主郭を巡る。

◆図はYAMAP
 

主郭下には、腰曲輪が巡る。
これは、主郭北端から下の腰曲輪を見たもの。
やはり、よくわかんない。
◆図はYAMAP
 

主郭内部の写真である。
真ん中に、丸い低い土壇がある。
それ以外は平地となっている。
◆図はYAMAP
 

主郭の南東端には、土塁が残る。
これは土塁を撮った物だが、土塁に見えないな。
◆図はYAMAP
 

この土塁の端に、虎口がある。
これは城外側から土塁&虎口を見たもの。

分かんないよなー。
しかし、今回もマトモな写真が撮れなかった。
私の腕もあるだろうが、こういう、藪城の宿命だ。

飯村山城は、基本、切岸、土塁、堀切のシンプルな城で、単郭である。
考えてみれば 、要害城、根古屋城も基本単郭な城であった。
参考資料によると、この地を治めていたのは飯村氏であるので、彼らの築城の特長とも言えようか。

飯村山城は、曲輪配置からみると、要害城同様、北東方面を特に警戒しているように見える。
主郭北東面に、遺構は薄いが長い2段の腰曲輪があるのだ。
逆に、主郭南西面の尾根は、ほとんど警戒していないのである。
  山頂からちょっと下ると木が無くなる場所があった。
そこからの眺め。

天気が良かったら、もっと素晴らしいのになぁ。
ここでお弁当を食べ、帰途についた。



飯村根古屋城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

基本単郭の城とみた 
【縄張り彩色図】

 

◆写真は国土地理院
【アプローチ】
車は、城跡のある山の目の前を通る道路沿いのスペースに置かせてもらった。
左図、赤い囲みに小スペースがある。



 

 【アプローチ】
目指すは対岸のこの山である。
 

【アプローチ】
幾つかのサイトに、山麓のこのお宅に、許可を取るように書いてある。
呼び鈴を押し、

「ピンポーン」 

と音はするものの、

「・・・・・・・」

不在というより、どうも生活感がない。
このお宅には住んでらっしゃらない??のかな?。

仕方が無いので山に入らせていただく事にした。
白いお宅と茶色い屋根の間が道になっている。
 

茂木で感じるのは、「やたら廃屋が多い」事である。

先日の飯村要害城も、麓の家はほとんど廃屋だった。
聞き取りが全く実施できないのであった。
 

さて、主郭が見えてきた。
虎口である。
大きな土塁の切れ目の虎口である。
筆者側は大きな土壇となっている。

ここは、木橋だな。。。。

つまりは、私の立っているこの土壇は馬出だ。
おっつ、なんかすごいじゃん!
 

主郭に入る。
虎口両袖の土塁だ。
写真は土塁内側を撮影
  土塁のヒラミ部分。
太い。
久々だ、こんな立派な土塁。

◆図はYAMAP
 

主郭の東側尾根続きは、2重堀切となっている。
 

 角度を変えて。
   
綺麗な堀切である


◆図はYAMAPより
主郭下の西側斜面であるが、
腰曲輪として、過去図には掲載されている。

しかし、どうも写真の様に近年にかなり改変されている。
斜面側の削り痕が、最近の物だ。
CS立体図に比べ、段の数も増えてしまった。

かなり麓に近い部分なので、
この西斜面の山麓に近い段々を曲輪としてしまう事に、
管理人は懐疑的である。
   



飯村要害城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

茂木保の調査での新城 第2日目 
【彩色縄張り図】



 
 

車は1日目と同じく慶翁寺に駐車。
さて、早速ここから山に登ろう!


(アプローチは、第1日目を参照ください)
 

さっそく、城跡に到着。

で、写真ではわかり辛いと思うが、
この城の中で最もハッキリしている西の郭の虎口である。

桝形門を意識しているようで、
城内で、一折れさせている。
 

 ホントは、北の大堀切の写真が欲しかった。
でも、ぜんぜんうまく撮れない。
仕方が無いので、郭の外から、
堀切沿いの土塁を撮影した。
これも、分かんねーか!

◆図はYAMAP
 

大堀切は、堀がクランクした後は、
切岸だけが下方に延びる。
これはその切岸の先端部分。
斜いた曲輪が残っている。

◆図はYAMAP
 

2の郭下の堀切?というか横堀というか。
通路が堀になっている。

ココから下方に長い尾根が延びている。
 

 
その下の尾根を歩く。

CS立体図では
この尾根の先端に曲輪っぽいのが見える。
行って見たが、とても怪しい。
ホントに城の物なのだろうか?

私は、基本は城外と考えている。

◆図はYAMAP
 番外編 北の堀切? 
 ◆図は国土地理院

さて、茨城城郭研究会の方の情報によれば
飯村要害城の北方に堀切があるという。

確かにCS立体図にもそれらしい陰影がある。
候補地は①と②

時間が余ったので確かめ算に行ってみた。
 



 


候補地①

ダメである。

単なる道の跡で、ガセネタである。
これを堀にしちゃ、ダメでしょう。

◆図はYAMAP
 

 候補地②

ここには堀っぽい溝があり、
道の跡かと思いきや、
ちょっと違う。

両側に道が繋がってない。
また、道にもなりそうもない斜面だ。
・・・となると、やっぱ堀切かな?
でも、1本だけ。
ワンオペである。
しかも飯村要害とは約900m離れてる。
なんで、こんなとこに・・・謎。


◆図はYAMAP
  図を付けておく。

飯村要害に付随しての、前線基地として置いたのか?
でも、敵が飯村要害に取りつける尾根は、
この堀切に至るまでにいくらでもある。
この堀切1本で、何をしようとしたのか、
管理人には理解できない。
 
  場面変わって
"飯村城跡"といわれる大楽寺から、飯村要害城を望む。
ここが本城だとしたら、要害城との連携はバッチリである。

左の写真正面のちょっと高い所が、飯村要害城である。
◆大楽寺
考察

この城は、飯村氏の本城であろう「飯村(本)城」の真向かいに当たる。
本城は、かなり破壊が進んでいるらしいが、本城と要害城が結びついていることは容易に想像できる。

要害城を良くみていただきたい。
この城の防備の主眼は「北」にある。
要害城の敵は、兎に角北から攻めて来るのである。
執拗に、こちら方面の堀は深く、厳重な構えとなっている。
その他派生する尾根にも堀、堀切があるが、防戦している間に敵に回り込まれた時の対処の物で、
敵の初動の侵入方向は完全 ”北” と決めつけているのである。
これだけ、築城の意図がはっきり表れている城も珍しい。

また、逆にもっとも手薄な方向は「南」である。
これは、先の稲村(本)城の方向で、この城が飯村城と主従関係にあったことが、縄張りからも読み取れる。

北は茂木城方向という事になる。
稲村氏は宇都宮氏方の武将であったという。
よって、この城は茂木氏=佐竹氏との抗争を予想して造られたものと考えるのが、穏当ではなかろうか。



茂木保の調査での新城 第1日目 
 
◆図はQ地図 赤色立体図
茨城城郭研究会が茂木保(佐竹氏の領地であった)の研究で
茂木町周辺をシラミツブシに調査されている。
この城はその調査の一環で見つかったものだ。

茂木町は、2023年時点、
栃木県のCS立体図の適用範囲対象外地域であった。

しかし、国土地理院の 「基盤地図情報 」には
茂木町の1mメッシュが掲載されており、
茨城城郭研究会の方がこれを元に、
飯村要害城をデーター上で発見された。

研究会では、2025/4月に現地も調査もされ、
素晴らしい遺構が、ほぼデーター通りに有る事も確認されている。

その後は微地形表現の各アプリでも、茂木町のデータが反映されていった。
今では簡単に赤色立体図、CS立体図で閲覧できる。
 

【アプローチ】
車は近くの慶翁寺に駐車できる。
墓参り用の駐車場を拝借した。
 

【アプローチ】
ここから、坂道を少し登り、写真の所で右折。
 

 【アプローチ】
暫く農道を歩き、途中から緩い尾根に入る。
 

 【アプローチ】
とっつきの尾根はこんな感じ。
 

【アプローチ】
そこを進むと、山道が尾根の左手に出てくる。(左写真)
あとは、山頂を目指そう。
地図上でまとめるとこんな感じ。

◆図は国土地理院
 縄張り調査
 

 

この城のファーストインプレッションは、
『でかい・・』
って事。

作業を始めると、堀と曲輪周辺の切岸が
ハッキリしている事が分かってきた。
その代わり、曲輪内の加工は偉くテキトウ。

だから写真は堀切だけになってしまう。
これは、主郭内にある堀切。

◆図はYAMAP
 

 
2郭東の堀切である。

◆図はYAMAP
 

 2郭堀切から、2郭内の切岸を見上げる。
切岸の迫力は、なかなかの物である。
(しかし写真では全く伝わらない)
 

朝から歩き続けて5時間。
日が暮れるまで、まだ時間があったが、実は体力切れ。

足が攣ってしまった。
尾根を1本、1本、登ったり降りたりしたからだ。
病み上がりにはキツイ。

足は、右をかばうと、今度は左が攣った。
・・こりゃもうダメかな。

ここで私は一部を残し、午後2時、調査を断念した。
  きょう行かれなかった北の最大の堀切だけ写真に納めた。
す、す、凄い。(写真じゃ、分からんだろうが。。。)

次回の宿題だな。