那珂川町2025

栃木県の中世城郭


那珂川町 2025 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。

矢又城
矢又南城



●●城    電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

で見つけた場所 
  アプローチであるが、
地形図を見ると、
目的の堀切場所まで県道210号が通っている
「ラッキー!」
車で登るだけ登って、楽しよう!


   
   
【考察】  
 

矢又城
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佐竹との抗争の跡地? 2025/01/11
 
那珂川町に拠点を持つ武茂氏は、宇都宮氏の系列であり、宇都宮氏の当主不在の時には、その代行も務めたことがある家柄である。
しかし、
戦国時代に,武茂氏は下野に進出してきた佐竹氏の配下となる。
わたしは、これが不思議でならなかった。
あまりにも突然のように感じたからだ。


それ以降、武茂氏は佐竹氏の烏山攻めに、佐竹側として参戦し、小田原征伐後は、佐竹の転封と共に秋田に同行した。

私が思うのは、この武茂氏、一族郎党が、
いつ、どんな過程を経て佐竹の配下になったのか?

という所である。



武茂氏が佐竹の軍門に下る理由は、資料によって一定ではなく、
簡単に 「佐竹の配下になった」 と書かれているものばかりだ。
つまり、武茂氏がどうして佐竹側に着いたのか、どんな過程でそうなったのかがわかっていない。(私見であるが・・)

普通に考えれば、佐竹の烏山城攻めなどに代表する ”下野侵攻” の過程の中に、
佐竹が武茂氏領(旧馬頭町)を徹底的に攻めた時期があったのではないか?と思う。
元々宇都宮氏の流れを汲む武茂氏が、
簡単に 「はい、わかりました!」 と簡単に佐竹の軍門に下るとは思えないのである。


だから

武茂城を中心に、馬頭町の武茂川沿いにたくさん散らばる城々は、
佐竹の攻撃に対する、武茂側の抵抗迎撃戦線なのではないか?

というのが私の意見である。



さて、
今回の矢又城も、武茂城から非常に近い場所である。
その形態から陣城と判断した私は、
矢又城も、
佐竹氏侵攻に際し、武茂氏が防衛のために作った陣城ではないか
と推察している。


なお、この城は茨城城郭研究会の青木義一氏らが調査し、縄張り図を発表している。
氏は武茂氏が佐竹に従属後、佐竹への連絡のために作った狼煙の可能性を指摘している。
または、山麓にあったであろう居館に住む人々の避難場所と考えられているようだ。
ただ、引っかかるのが、この程度の城に果たして居館が営まれたのか?という所が、どうも私には気になる



 
【考察】
ここで、まず狼煙としての機能が矢又城に成り立つか検証してみた。
地形図から、武茂城と矢又城、矢又南城。
そして、佐竹側でもっとも近い城と思われる鷲子山城の連絡についてみてみよう。
国土地理院地形図の断面図機能を使って作ったのが下の資料である。




結果から言うと、矢又城からは、武茂城や鷲子山は、途中の山に阻まれて見えないのである。
しかし、矢又城と同時に見つかった矢又南城は、鷲子山城、武茂城からも見えるのである。
よって
矢又南城は狼煙の可能性があるが、矢又城は狼煙の城ではない
では、何の為の城なのか?

矢又城は、南に川を前面としている。
また、人を驚かすように、ちょっと街道から奥まったところに立地している。
もし、矢又城が佐竹側との連絡の城であったなら、川を前面にすることもなく、ちょっと街道から奥まった処に築く必要も無いはず。。。。

これらの事から、矢又城、矢又南城も、
南から来るであろう佐竹の攻撃に対し、
武茂氏の備える城だったのではないか、と考えたのである。


矢又南城は、敵を見張る狼煙&物見台で、
矢又城は南から来る敵を、ちょっと隠れた場所から
 ”逆心曲輪的に攻撃する城” だった。



前振りがえらい長くなったが、ここから城の紹介である。

 矢又城
 
◆栃木県CS立体図 



ここはCS立体図に堀切の陰影があり、私も調査の候補地として挙げていた。
しかし、佐竹氏の下野進出を調査していた茨城城研の方々が、
調査を行って、ネットで縄張り図も公開されていたのである。
先を越されてしまった形だが、
今回、改めて自分の目でも調査を行ったわけである。

 
◆図は国土地理院
車は、地図の道脇のスペースに停められる。
(左図

山へのアプローチであるが、
麓の集落から尾根伝いに行くしかない。
明確な登り口も、登り道もない
ので、注意である。

【縄張り図】 




左図まで登ると、
突然堀切が現れる。
シッカリした堀切だ。



 

 堀切の真ん中には、土橋が作られている。
 

 
土橋を正面から。
土橋の頂点は、馬出状に土塁が築かれている。


◆図はYAMAP

土橋付き堀切から山頂までは、
自然地形と思われる。
往時は細かな段があったかもしれないが、
今は、落ち葉で判別がつかない。
何も描けないまま山頂に着いてしまった。
 


山頂からは、南に下った尾根に祠が2基ある。
お供えが新しい。
おそらく今年新年のものであろう。
道も無いのに、
ここまでお供えに来る方がいらっしゃるようだ
 

山頂は平ら。
やはり、ココにも明確な切岸が無い。

図には一応切岸を書いたが、
神社(祠)の造成の物かもしれない
 
◆図はYAMAP
 山頂(主郭部)から、
今度は北東の尾根続きに向かう。

 



すると、大きな堀切にでくわす。
現在主郭部側から堀に降りる道がついている。
 



堀切から見上げると、この様な感じ。
神社へ行くため、
後世に作られた道なのかもしれない。

遺構としては以上である。
結局、堀切2本しかない。
しかし、城の面積的に、この規模は狼煙台というレベルではないだろう。
シッカリとした戦闘に備え、陣城として兵士を駐屯させておく臨時の城と考える。

冒頭でも述べたが、武茂氏が佐竹氏の配下になる前に、佐竹と武茂の争った遺跡だと思っている。


 
矢又南城 
電子国土へのリンク

 矢又南城
 
◆栃木県CS立体図

矢又城と矢又川を挟んだ南の峰にも
堀切の陰影がある。

ここも茨城城研の方々が既に調査を行っていて
ネットで縄張り図も公開されている。
 

明確な登城ルートもなく、
尾根伝いを直登するしかない。
伐採用に作られた作業道があるが
古すぎて草木に埋もれている。
私は、直登を選んだ。

◆図はYAMAP
 

頂上に近づくと、
勾配がきつくなる。
しかし、遺構は全くない。
◆図はYAMAP
 眼下に目を向けると、
先ほどの矢又城が良く見える。
 



【縄張り図】
 
 

 
山頂に着いた。
明確な遺構は全くない。
◆左図はYAMAP
 


◆左図はYAMAP

唯一残るのがこの堀切である。
明確に堀切だ。

この上にもう一本堀切状の遺構がある。
これと合わせて2重堀とする見解がある。
ただし、この山を越えるための
山道の痕跡のようにも見える。

判断が難しい処だ。


◆図はYAMAP

 遺構は以上だ。
ついでにさらに西隣の峰にも登ってみたが、何もない。
結局、堀切2本(1本?)だけの城である。
ここが狼煙台であれば、納得できる規模である。

矢又城とセットの狼煙台と考える。


 
今日は矢又城、南城のダブルヘッダーで疲れた。
尾根で休憩したのだが、
疲れちゃって、ウトウトしてしまった。



城の考察は前述のとおり。
ここは狼煙台跡で、矢又城はココの情報を仕入れている。
矢又城への情報伝達の城が、矢又南城なのである。